あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

『民主主義という不思議な仕組み』(佐々木毅・ちくまプリマー新書)

民主主義という不思議な仕組み (ちくまプリマー新書)

民主主義という不思議な仕組み (ちくまプリマー新書)

 東大総長も務めた政治思想研究者による高校生あたりを対象としたデモクラシー入門。実際amazonの評価でも一番優しい民主主義入門とある(らしい)。

 ただ、高校生が自力で読むにはちょっと難しい。
 解説を加えながら一緒に読んでいくと勉強になると思う。民主主義の起源を古代のギリシアの政治から説き起こす。
 このルーツとも言うべきギリシアの民主制は、現在からすれば意外なことに、当時の人々の高い評価を得ているわけではない。それはせいぜい、悪い政治体制の中でもっとも悪くない、というワーストを避ける選択肢としてチョイスされていた、ということである。まだ近代の人権概念が生まれる遙か以前の話であるので、統治の形態として、君主制・貴族制…などと並ぶ、比較政治制度上の話でしかない。
 そして、なによりも当時のギリシア直接民主制であったから、それが実現可能だったのは当時の都市国家という特殊な国家形態によるところが大きかった。後年、帝国のような政体が登場するときに民主制が採用される余地がなかった、のはこのためとも言えるのだ。

 さて、そうした一度は途切れた民主主義が再び脚光を浴びる契機となったのが近代市民革命の発生だろう。「契約による権力」と「法の支配」を原則とする近代民主主義は生まれながらの支配・被支配という関係から「自由で平等な人間がお互いの契約によって、政治社会と政治権力を構成するという構想」において成立したモノなのである。
 そうしたなか、いち早くこの復活した政治制度に内在する問題に直面したのがアメリカである。ハミルトンは『ザ・フェデラリスト』の中でどうして強力な連邦政府を作らなくてはいけないかを考察した。彼らによれば「新たな連邦政府を樹立することによって、民衆の政治(popular government)に付きまとう派閥の弊害が抑制できる」と考えたのである。つまり、「民衆による支配と多数派の支配」が陥る統治の危機を抑制する手段としての連邦制の採用であった。
 さらに代議制民主主義と連邦制を採用すればそれで上手くいくとはジェファソンらは考えなかった。植民地時代の経験から行政権への強い警戒心と、立法部の肥大化という問題点に直面していた彼らはモンテスキューの議論を用いて三権分立を採用することになったのである。こうして出来上がった最古の成文憲法であるアメリカ合衆国憲法は「政府が自身が政府を抑制する」という彼らの理想を実現したモノだと言えるのである。

 こうして以後、世界の政治制度として定着する民主主義だが、それが支持されるのは、古代ギリシアの時とは異なり、「人間の持っている基本的人権に適合する政治の仕組みは、民主政治しかない」という理由によってなのである。
 しかし、このことはさまざまな政治問題に対して、最も優れた問題解決能力を民主政治が持つと言うことを意味しない、という点には注意が必要だろう。


 古代ギリシアにルーツが存在し、近代市民革命を経て現代にも受け継がれる民主政治であるが、現実的には代議制民主主義という形態をとらざるを得ない。しかし、ルソーが「一般意志は代表されない」と述べるように、議員はあくまでも他人であり、本人ではない。
 それでは治者=被治者という民主主義の原理からすれば代議制民主主義はどのように考えればいいのだろうか。
 著者はそれに対して「みなし」ということに着目する。自由な選挙によって「誰を、あるいはそれを通じてどの政党を自分たちの代表と『みなす』かをめぐって、政策に担い手を選択する」ことが必要だと説く。
 このほか、政治と世論の関係(エリートと大衆、世論操作、政治指導者と世論のせめぎ合い)、参加と不服従の関係(多数による支持という「みなし」によって、惰眠をむさぼる民主政治の『弱さ』がそこには存在しているのではないか?)、そしてこれからの政治の課題について述べている。とりわけ最後の3章は、現代の政治問題を考える際のヒントになりそうであるが、詳しくは本書を手にとって貰えばいいと思う。