あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

マンガにも古典?

 久米宏の番組でビートたけしと対談したことがあった。
(夏に最終回になった「クメピポ」ってヤツ)
 その時にたけしは、今のお笑い芸人と自分(たけし)とでは、もう、全然自分に勝ち目がない。って話してたらしい。

たけし:オレはお笑いの感覚なんかはね、「若い人に負けない」なんて絶対思わない。「負けてるに決まってるじゃん」って思ってる。

千原ジュニア:そういう感覚なんですか?

たけし:そう。ただ、ちょこちょこと、そのネタのやり方ふり方は「オレが作ったことある」って。

ある時期さ、走り高跳びで「ベリーロール」とか「ロールオーバー」とかやってて、「背面跳び」になった瞬間のすごさってあるじゃないですか。あれでオリンピックでぜんぶ背面跳びで世界記録出したでしょ?

でも、最初に背面跳びやった奴は、それだけだよ。記録があとぜんぜんこんなに違うから。でもその人が歴史に残る。だから実力的に今の人のほうが絶対に上だけど、「あ、それオレやったことある」みたいな、優越感だとしたらそこの部分くらいだね。で、やっぱり今のほうが上じゃない、そのアレンジしたやり方だったら。

ビートたけしの「テレビ界の世代交代が進まない理由」)
http://d.hatena.ne.jp/tvhumazu/20090731/p1

 古典と、そのあとの作品との関係って、まさにソレだよなぁ、なんて思った。
 人類は1000年以上も前から、同じプロットに涙を流して、歓喜している生き物だから、正直なところ「最初にやったモン勝ち」な側面はあるだろうね。
 だけど、半端なアレンジの仕方だと、それって二番煎じとしても失敗だよね、みたいなことになる。これはお笑いだけじゃなくて、マンガでも映画でもドラマでもそう。だけど、そこで上手いこと「本歌取り」みたいな形にしていると、こっちも感心するんだが。

 いや、なんでそんなこと思ったかと言えば、下の記事。

名作文学の表紙に『DEATH NOTE』の小畑健らジャンプマンガ家のイラストをあしらった集英社文庫シリーズが、『青い文学』として日本テレビ系でアニメ化されることがわかりました。

小畑健が『人間失格』『こころ』のキャラクターデザインを手がけるほか、『地獄変』を『BLEACH』の久保帯人が、『走れメロス』を『テニスの王子様』の許斐剛が手がけます。全12話で10月10日(土)25:20より放送スタート予定。

 ネットニュースで採り上げられていたから知っているヒトはいると思うんだけど。個人的に、普段古典なんて絶対に見ないような層が見て、何を感じるかに興味があったりする。

 というか、ネームの描けないマンガ家は、古典作品を現代風にアレンジするなり、そのままにしてやるなり、してマンガ化すれば良いんじゃないか。(←暴論)
 だって、古典とか、読まないヤツらホントに読まないもんな。

 だから、さっきの話に戻ると、「本歌取り」したときの「本歌」が実は分からないってコトが往々にしてあると思う。管理人も文学系は疎いから、モチーフが分からなくて、楽しみきれなかったりするし。だから、海外の文学作品とか映画とかには、聖書だったり、シェイクスピアだったり、とにかくestablishmentならば当然押さえておかなくちゃいけない素養みたいなモノを前提に作品が作られている気がするんだよね。

 教養を身につけろ!という説教はしたくないけど、カルチャーの共有が無くて、それぞれがタコツボ化した「自分の世界」しかないもんだから、相手の話を聞いても食いついてこないし(単に好奇心が無いとも言えるのだろうけど)、そいつの話も一般的な視点というモノをまったく持たないから、なんにも面白くない、ってコトが良くあるんじゃないのか。難しいところだけど。

 ともあれ、小畑版『人間失格』において
「僕は新世界の神になる」
なんてセリフが出てこないことを祈りたい(あたりまえか)

人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)