あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

『検察の正義』を読む。

検察の正義 (ちくま新書)

検察の正義 (ちくま新書)

 著者は元・長崎地検の検事。いわゆる「ヤメ検」のヒトである。現在は弁護士としてコンプライアンス関係を担当する傍ら、名城大学教授として指導にも当たっている。

 というわけで、「ヤメ検」による特捜部への批判的考察、というとちょっと言い過ぎだろうか。

 「特捜部」というのは検察にある「特別捜査部」の略称である。政治経済の授業の復習になるが、警察が捜査した事件を検察が起訴するかしないか決定するのである。コレがフツー。だから、一般的には多くの事件を抱える検事が捜査・容疑者逮捕をすることはない。

 しかし、「特捜部」は独自の捜査権限を持った検察組織だという理解をすると良いだろう。
 この特捜部、歴史はそれ程古いモノではなく、1947年(昭和22年)に隠退蔵物資事件が発生したことで組織が誕生したのだ。
 
 そういった経緯で誕生した特捜部なので、この組織はその性格上、政治家汚職や、脱税、経済事件(→談合とか)を独自に捜査する組織になっている。(小沢一郎の問題もこのあたりに由来する)
 
 ただし、古巣に対して「検察バンザイ」にならないのは吉とすべきだろう。著者は、特捜部がロッキード事件で大きな成功をしてしまったが為に、以後の捜査では、ロッキード体験を引き摺るかたちでしか捜査ができなかった、と指摘する。過去の成功例に固執するのは、どの組織でも同じなのだが、検察といえどその例外ではないというのだ。

 では何が「検察の正義」なのか、ということだ。
 当たり前なのだが起訴したところで、本来は有罪確定ではない。しかし、一連の報道を見ても、また人々の意識でも、「起訴=有罪」なのである。ゆえに、検察としては「起訴すること」が一種の正義の行使である、ともいえるのだ。

 ここに検察の正義にアポリアが存在する。

 世の中には一つの事実を巡って正義が複数存在する場合も起こりうる。しかし、「検察=正義」となった場合には、その検察が暴走した場合、正義が暴走しかねない。正義は概念であるが、検察はこの社会にある人間の作り出した組織である。要因によっては暴走しかねない。
 そうした検察の正義の暴走に対する歯止めとして政治側からの「指揮権の発動」があるのだが、これも造船疑獄事件(1954)以降、政治による検察的正義の妨害と社会的には認識されているため、行使がムズカシイ状況にある。

 だとすれば、検察はその「正義」を体現する以上、絶対に間違ってはならない、という宿命に立たされる。これがアポリアなのだ。

 後半は著者が経験した、長崎地検での独自捜査の記録である。やや手前勝手なところがあるけれど、著者自身が体験した実話はとても面白く、事件解決に向けて動き出す様は、まさにドラマの「HERO」そのものだ。(著者自身は久利生公平のような変人ではない)

 そこそこ面白く読めた。
 準推薦。