あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

劇場版 東のエデン2 Paradise Lost

 フジの深夜アニメ枠(ノイタミナ)でやっていた『東のエデン』年末の劇場版エピソード1に続いて、完結編となるエピソード2である。

 ネタバレにならないように気をつけながら、感想。
 思えば、全体を通じてこのハナシは、「この国の空気に戦いを挑んだひとりの男の子と彼を見守った女の子のたった11日間の物語」なのであって、どこまでその舞台は広がっていったとしても、コアになるのはその「たった11日間の物語」で言い表せてしまう、あくまで滝沢朗と森美咲の二人の心理描写なのだ。
 それはこのアニメの第1話が「王子様拾ったよ」であったことから、シンボリックに表されていたのである。視聴者は彼らが一体、この国をどうするのかとか、そーいう大きなハナシに興味関心が向かってしまっていたが、実はそうではない。ストーリー上の大きなベクトルは結局は小さなベクトルへ収斂していく。元々、そういう作品であったのだろう。

 プラクティカルな感想をちょこっと。
 約1年近く引っ張った作品であったため、アニメの記憶が既に随分怪しくなっている。おかげで細かな設定や、伏線が記憶の忘却によって、劇場版ではそれが有効に回収されているのかどうかが、今ひとつ判断できなかった。


 全体の感想は以上として、個々のセリフで反応した箇所をいくつか。ちなみにメモを取りながら映画を見たわけではないから、セリフは大体な感じ。


 カネの使い方は子どもでも知っているのに、貰い方(稼ぎ方?)は大人でも知らない
 カネを使うことに快感(喜び)を感じるより、貰い方に喜びを感じる方が健全だ

 これは滝沢が何故、100億使えるセレソン携帯の所有者になれたかを明かすエピソードなんだけれど、この言葉なんか、「消費者の論理」と「生産者の論理」の構造的な交叉を示すものではないのか。市民が一消費者ではなく「消費者」としてそこに存在するとき、この社会は「消費者」の視点で全てが構成されようとしているのではないか。
 24時間営業しているコンビニやレストラン、スーパー…。滝沢が語るように「お客様は神様」というのは、あくでも「売る側の心の持ちよう」としての言葉であり、それを消費者が自ら「お客様は神様」であるとするのは思い上がりも甚だしい。
 結局、われわれは消費者の論理に従って、自らの生活をある意味では切り下げざるを得なくなっている。果たしてそれは健全なのだろうか。


あと好きなのは、引きこもり学生だった板津の次のセリフ。

 「そーいうモノ」(管理人注、全共闘世代の精神)も積極的に受け継ぐべきだったのかもしれん

 社会のなかで「上がりを決め込んだオッサン」たちによって今のニートを初めとする若者世代は割を食っている。だから、全共闘世代は若者たちの未来を食い、この社会の「重たい空気」を作っている元凶ともいえるのだろうが、板津はここにきて、彼ら(全共闘世代)の全てを否定するのではなく、彼らに対する共感を寄せているようにも思える。
 それは全共闘世代の「時代精神」と言ったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも既存の社会や権威に対して、若者世代が団結してそれに対するフォーマル・インフォーマルな異議申し立ての精神であった。それがどこまで次の時代に影響を与えたのかについて、この作品のなかで評論めいたセリフは出てこない。けれど、少なくとも、何をするわけでもなく、日常のなかの、自分の世界に没入してしまう現在の自分たちの世代に対する無条件の肯定からは、板津自身がひょっとしたら距離を置いているのかもしれない。


 そういえば、この映画のポスターにあった「滝沢朗は何者なのか」にたいする一般的な答えはついぞ出ない。しかし、最初から出ているのだ。そう、「王子様拾ったよ」という咲によるそのコトバに。


 ともあれ、3月も1本の映画を見られたと言うことで。まあ、よかった(笑)。