あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

教育問題はなぜまちがって語られるのか?

 メディアにも時折コメントを出す2人の教育学者による著作。
 タイトルのとおり「教育問題がなぜ間違って語られるのか」を問うものなので、教育問題に共通する何か重大な問題がある、と意気込んで読むと大間違いだ。むしろ、そんな「教育問題への無理解」に対して批判をしているメタ言説の本なのである。

 メタ言説とも書いたけれど、それはあとがきにも書いてあるように、教育問題を語るのに必要な社会科学的センスを磨いて貰いたいという狙いがあるモノだと考えられる。想定しているのは高校生から大学生の一般教養レベルなのであろう。

 個人的にはここで展開されている話は当然すぎるのであるが、それでも本書を出版するのは、あまりにも「個人の経験」や「根拠を欠いた思い込み」で教育問題を語ってしまう学生や評論家、政治家の存在であろう。教育問題に対しては「トンデモ議論」や「クズ本」が跋扈する現状であるから、教育学を専門とする著者の苦労は何となく理解できる。
 管理人も社会科学を専攻していたから、居酒屋で話すようなレベルを実際の議論のテーブルに上げてしまう人々を幾度となく目撃し、ガッカリしていた記憶がある(苦笑)。

 以下若干、気になる箇所のメモ。

 教育に関わる何らかの現象が「教育問題」としてクローズアップされるのは、それが「社会的に問題である」と「社会が認識するから」である。例えば、戦後にあった、子どもの慢性鼻炎問題などのように。
 「いじめ」の問題も同様であって、中高生の自殺に占める「いじめによる自殺」はさほど多くないという。このことは、「いじめによる自殺に問題がない」ということを意味しないが、同時に、学業不振や家庭内不和、友人関係の悩みといった、数としては多数を占める自殺に対する関心が向かわない危険があるのでは?と個人的には思った。
 同じように、社会がクローズアップする以前からそれらの問題は存在していたのであり、「昔はそのような教育問題は無かった」イコール「昔の教育が素晴らしかった」というわけでは決してない。
 

 問題に対する議論では、いくつかのフェースに分けられる。
 
 1 事実認識のレベル(問題となる事実は何か)
 2 診断のレベル(問題点の本質や原因、影響をどう考えるか)
 3 対策のレベル(どういう方法で問題が解決・緩和できるのか)

 だが、教育問題は(恐らく多くの人間が学校に通い、保護者になる経験するがゆえに)自身の経験だけや、先入観によって語ってしまう傾向が強い。しかし、それは事実認識の時点での間違いを生み、そこから導き出される対策は、却って教育を間違った方向に進めてしまう危険がある。(話は大きくなるけど、中国の大躍進なんて典型なんだろうな)
 犯罪社会学の研究に依れば、実際の殺人件数はここ30年ほど横ばいであるのに事件報道は増えている。そうした報道による「イメージ」が事実認識を謬らせることが現にある。


 昨今の家族関係は「希薄化」していると言われるが、内閣府の調査によると「自分の家庭は家族の絆が強い」と答える国民は90%近くに達している。それと関係するだろうが、ゆえに社会問題に関心を持つきっかけが「自分の経験」や「自分の観察」から出発するのはイイが、それを客観視できる相対化したデータをきちんと持つべきなのだろう。

 「何よりも問題なのは、若者の失敗をゆとり教育のせいだとする、根拠も裏付けも何もないと言うことです。実際、『ゆとり教育が若者の職場での失敗を生んでいる』と言ったことを論じた研究結果も調査結果も、私は見たことがありません。ゆとり教育が算数の学力を低下させているか否か、といったことについてはいろいろな議論がされています。だから、『ゆとり教育で学力が低下した』という話をしろ、というのなら、まだ理解できます。しかし、若者の職場での失敗をゆとり教育のせいにすると言うのは、あまりに暴論です。」

 仮に、事実認識や診断によって教育問題が認識されたとしよう。その後の「対策レベル」では「何処まで効果は数字で示せるのか?」という観点が必要だ。かけ算九九を教える、テストをする、その定着率を計る。というなら可能であろう。しかし、いじめや不登校といった事象に対して、目的と手段の関係は、先に挙げたような例とは異なり複雑である。数値化そのものは悪ではないが、数値化に馴染まない分野もまた存在すという認識は必要だろう。

 また、教育には可能性があり、現場の人間はそこに自らの人生を「懸け」ているが、とはいえ、万能ではない、ということだろう。「限られた能力を持った教員が、限られた時間の中で、つかまえどころのない生徒たちに対して及ぼせる影響は、自ずと限定されたものになって」いるのが現状である。

「講義をしていて、ほとんどの学生が息を呑むように食いついてくる瞬間が、一年のうちごくわずかあります。ほんと、ごくわずかです。演習で議論して、学生がそれまで見ていた世界とは違う次元の世界に飛躍する瞬間が、ごくたまにあります。(中略)―教育がやれることは、その程度です」

 ここに述べられているのは若干、学校教育に偏っている部分もあるかと思うが、教育に対して絶望はしないものの、過剰に期待せずに日々向き合うことは必要なのだろう。