あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

アルブレヒト・デューラー版画・素描展 宗教/肖像/自然@国立西洋美術館

 「1500年の自画像」とかでお馴染みのデューラー展を観に行く(もっとも、目的は忘年会という邪な理由のいわば「ついで」のような扱いなのだが。苦笑)。
 デューラー(1471-1528)はドイツ・ルネサンス期を代表する芸術家であり、また、ルター派の芸術家でもあった。『芸術史と芸術理論』(青山昌文)にあるように「他のドイツ・ルネサンスの芸術家たちとデューラーの最大の違いは、彼がイタリアに行って、イタリアの芸術理論と芸術技法を本格的に深く研究した」ところにあるという。デューラーの芸術はそうした、想像の源としての神の存在を内面に秘めた、まさに禁欲的なプロテスタント精神が宿っている(らしい)。

 そんなことを偉そうに書くわけなのだけれども、『聖書入門』とか『キリスト教入門』くらいしか読んでない管理人には、今回のデューラーの版画のモチーフがどの程度そうした精神を反映しているのかあまりよく分からなかった。受胎告知や、キリストの昇天といった、聖書の内容に即した数々の版画があったのだが、やはりここはしっかりとキリスト教の教えを理解しないと、本当の感動からは遠いのであろう。
 もっとも、それ抜きにしても、この時代の芸術作品を理解するには、「技術論どうこう」ではなくて、同時の時代精神とか美術史上の考え方を知る必要はあるのだろうが。

 もっとも、そんな管理人であるが、あまりに精巧に作られているデューラー木版画や銅版画を見ると、驚くと言うよりも、むしろ呆れてしまうような立派さである。全てが紙幣に印刷されている肖像画のような無数の線の集合によって、見事な版画が完成されている。500年前の工具が今とは比べるべくもない時代に、一体どれくらいの日数をかけながら、どのような方法で作り上げていったのか、考えただけでため息が出そうだ。

 活版印刷術という、メディアの歴史上の大発明が、皇帝の権威のあり方にも影響を与える。つまり、皇帝は自らの肖像を版画にさせ、巨大な作品としてそれを国内に流布させることによって、多くの人間が「見たこともない」皇帝から「現前に存在する偉大なる統治者」としての皇帝として現れるのであろう。そのインパクトはいかなるモノであったのだろうか。

 なんてことをつらつら思いつつ、展示を見てきた。

 タイトルのとおり、メインが版画なので「1500年の自画像」はないし、いろんな絵を見たい人には若干地味に思えるかもしれないが、ただ、その精巧さには圧倒されることだけは間違いない。