あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

都響 第711回定期演奏会 Aシリーズ

2011/01/24 会場:東京文化会館

指揮:ヨナタン・シュトックハンマー
サクソフォン須川展也
ピアノ:永野英樹
ハープ:吉野直子
プレトーク西村朗(作曲家)・片山杜秀(音楽評論家)【18:35〜18:50】

西村朗サクソフォン協奏曲「魂の内なる存在」
ジョリヴェ:ハープと室内管弦楽のための協奏曲

西村朗:幻影とマントラ
ジョリヴェ:ピアノ協奏曲

 毎年、1月の定期演奏会は現代音楽の夕べと化している都響であるが、今年はN響アワーの司会でお馴染みの西村朗(1953-)とジョリヴェ(1905-74)である。ジョリヴェは『のだめ』の中で登場した(ティンパニの真澄ちゃんの課題曲として協奏曲)けれど、今のご時世にジョリヴェを生で聴く機会はほとんど無い。管理人も生で聴くのは初めてだ。

 西村の作風は汎アジア主義的な音楽である。本人も片山杜秀とのプレトーク中に答えていたけれど、意図的に西洋音楽における音楽の構成観を覆して作曲している。それが成功しているかどうかといえば、個人的には失敗していると思う。試みとしては面白いが、音楽としては面白くない。もっとも、このへんは好みによるのだろう。伊福部や芥川なら喜んで聴くけれど、松平とか、どーも苦手だ。
 サクソフォン協奏曲は、サクソフォンのアクロバティックな超絶技巧に驚きつつ、サクソフォン自体が尺八のようにうねり、それまで持っていたこの楽器に対するイメージを破壊する。神秘体験をしている映画で出てきそうなBGMとでもいったらいいのか、まあ、それも音楽なんだけれど、確かにそれは「魂の内なる存在」ではあるのだろうが、うーん…。

 ジョリヴェのハープのコンチェルトは、四六時中ハープは演奏している。独奏のトコロは当然ながら、オケパートでも装飾音として常に弾きまくりだ。イメージからすると、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」でピアノがずーっと弾いているが、アレと同じ感覚だ。でも、こっちの方がずっと面白い。

 それは後半の2つのプログラムでも同様だ。カーネギーホールの時に聴衆の中に戻したヒトがいるとか居ないとか、ブラックなハナシがプレトークであった(笑い)が、西村の作品は楽器編成は大きいのだけれど、音の塊としては響いてこない。たぶん、そのあたりは意図的にそうしているのではなくて、構造的にそうなってしまったのだろう。タイトル通り、仏教的な音楽からインスピレーションは受けているが、あくまでもそのくらいで、直接的にマントラを表現しているというわけではない。仏教における声明(しょうみょう)も多くの僧が唱えることで大きな迫力が生まれるのだけれど、どうもそういった感じもなかった。

 ピアノ協奏曲はかつては「赤道」なんてつけれられていた曲だ。
 作曲年代もそうなのだけれど、この曲を聴くと、フランスの人文・社会科学の運動は文化全般に大きな影響を与えたのだな、と思ってしまう。管理人はコレを聞きながら、レヴィ=ストロースを思い出してしまった。この曲でジョリヴェはアフリカやアジアにあるプリミティヴな音楽を「発見」し、それが西洋の伝統的な音楽と全く遜色ない、むしろ、音楽に本質的に秘められていた宗教的・呪術的な要素というモノを表徴しようとしている。
 それは現代的な視点から見れば「オリエンタリズムだ」という批判はありそうだけれど、彼自身は一種の文化想定主義的な立場に立ちながら音楽を作っていったのでは無かろうかという気がした。

 ともあれ、ソリストは大健闘。指揮したシュトックハンマーも素晴らしい。この指揮者は良いな。今後もいい関係を続けて、招聘して欲しい。

 ともあれ、ジョリヴェはもっと演奏の機会があってもいい。CDも少ないしねぇ…。