あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956

 1956年、ソ連の弾圧支配に抵抗すべく民衆が蜂起したハンガリーメルボルン五輪に向けて水球チームのエースとして活躍するカルチ(イヴァン・フェニェー)は、 学生デモを統率する女子学生ヴィキ(カタ・ドボー)と出会う。 革命を信じる彼女と接し、ソ連軍が市民を撃ち殺す光景を見たカルチは、自由のための戦いに身を投じてゆく。戦いは一度は勝利し、二人は平穏な日々を得たかに見えたが、運命が用意したのは過酷な結末だった。

 あらすじを半分だけ載っけてみた。もう半分を書くと、クライマックスまでネタバレしちゃうのでこのあたりで。


 ハンガリー動乱を題材にした映画である。
 世界近現代史を勉強しなかったヒトのために簡単に話すと、日本ではハンガリー動乱とかハンガリー革命などと呼ばれる。スターリン死語、フルシチョフによる「スターリン批判」を受けて、ソ連の衛星国では現政権に対する批判が行われるようになった。ハンガリーでも1954年に言論の自由民主化ソ連軍の撤退を要求する民衆蜂起が起こり、一時的に成功したかに見えた。しかし、ソ連軍による大規模な介入によって鎮圧され、多数の犠牲者が出た。その後のチェコの「プラハの春」と同様の構図だと考えて良いと思う。 

 メイキング映像での制作アンドリュー・ヴァイナのコメント同様に、この映画の評価を巡っては批判もあると思う。これが「ハンガリー動乱」なのか「ハンガリー革命」なのかという表記一つをとっても分かれるように、党派制を帯びざるを得ないところもあるからだ。それでいえば、この映画の視点は徹底した「ハンガリー革命」からの視点である。そこには自らの自由を回復させようとして立ち上がったハンガリー市民の姿があり、それに対して徹底的に弾圧を加えるハンガリー勤労者党政府やソ連側は明らかに負の刻印を押されている。
 ただ、ソヴィエト共産党及びその影響下にある各国共産党政府の統治については様々に研究がなされており、必ずしも暴力的なスタンスだけではない。とはいえ、ハンガリー動乱について言えば、ハンガリー政府とソ連による一般市民への殺戮という事実は覆い隠すことが出来ず、そこへの批判は正当だろう。
 本来、共産主義は資本主義経済において奪われた人間性の回復にその思想的立脚点があるはずで、抑圧されていた市民を支援はしても弾圧することがあって良いはずがない。結局のトコロ、右も左も全体主義になると、そこに現れる社会というのは悲劇である。

 この映画では、水球というスポーツでオリンピックのエース候補となり、それなりの生活を送って人生を楽しむ若い男性と、社会のなかで生きる自己を問いなおし、その社会を変えていこうとする若い女性との交叉を通じ、相互に影響を与えながら意識に変化が生じていくヒューマンドラマの側面も当然ある。その上にハンガリー動乱という動かしがたい大きな歴史が存在し、この映画を深みのあるものにしている。

 個人的に見ながら気になったことの箇条書き。

 社会の変革には多くの学生たちがいたこと。
 そこに多くの人々が賛同していったこと(連帯)。
 抑圧体制にあって、人々を監視するのは体制側だけではなく、一般市民も荷担していたこと(日本の「隣組」のように)。
 このような体制下にあって、抵抗の源泉になるのは自由へ渇望であると共にナショナリズムでもあると言うこと。
 被支配の国にとってはナショナリズムは今日でも正当に評価されるであろうこと(日本との違い)
 結果論になってしまうが、あの状況でソフトランディングするには、国際関係において一種の駆け引き可能な、それでいて国民からのカリスマ的な影響力のある政治家でなければならなかったのだろう、ということ。そしてそれは、困難を極める条件である。
 
 アフリカで政治的変革が起こる兆しのある中で、なかなか考えさせられる映画だった。