野坂昭如『「終戦日記」を読む』
- 作者: 野坂昭如
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2010/07/07
- メディア: 文庫
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戦争時、少年だった『火垂るの墓』の著者が、大佛次郎、永井荷風、高見順ら知識人たちの日記から、彼らが東京大空襲、原爆投下、玉音放送などに対してどんな見識を持っていたかを探る。加えて、内地で終戦をむかえた自身の戦争体験も振り返る。当時の大人たちが思考停止状態に陥り、「しようがなかった」で済ませようとしていた戦争を伝える。
「焼跡闇市派」の面目躍如とでもいうのだろうか。まあ、本人にしてみれば躍如なんて浮ついたモンじゃない、なんて怒り出しそうだけれど。ここぞと言うところで句点を多用する野坂の独特な文体は今回も健在である。テーマも相俟って異常な吸引力と緊張感を持たせていると言うべきか。一度読み出すとなかなか止めることが難しい。
本書は元々、NHK人間講座「終戦日記」を読むをテキスト化し、さらに文庫化したものだ。管理人はNHKテキストの方を読んだ。文庫版とNHKテキストとの違いは画像が印刷されているかいないかであって内容は一緒だと思う。(NHKテキストの方には画像が結構多く載っかっている)
タイトルからも明らかなように、これは市井の人々の終戦前後の日記や、著名人たちのそれを読むことによって、戦争を語り継ごうとしたものである。
その第1回は「八月五日、広島」と題されて、冒頭から広島県立第一高等女学校1年の森脇瑶子さんの日記最終章が記される。
「明日からは、建物疎開の整理だ。一生懸命頑張ろうと思う」
と書いた瑶子さんたちの1キロ先上空で原爆が炸裂した。瑶子さんは同日10キロ離れた学校の理科室に諸語近くに収容され、夜死んだ。
「当時で言う国民学校低学年以下は、事態が分からなかったろう大人たちは、まったくの思考停止。あの歳の夏、日本本土で天皇陛下のために、お国のために、頑張っていたのは、森脇瑶子さんの世代だけだ」
と、野坂は言うように、この8月5日の他の著名人たちの日記は戦渦の中での日常を何となく過ごしている。そこには危機感も悲壮感もない。反対にどうでも良いような日常瑣末事にこだわる。
そうしたどうでも良いような日常瑣末事を記した日記の多くは8月15日まで続いていく。その時点まで、誰も日本の行く末を想像する者などいない。日常生活に苦労をするなか、人々はだんだんと、今、目先にあることに汲々としていく。戦争の行く末や自分たちの将来に対する記述が一切無いのは、そうした裏返しなのだろう。当時、売れっ子マルチタレントだった徳川夢声は結構良いモノを食べている。当たり前なのだが、あるところには食べ物はある。
8月15日を境に、変わったことは野坂の表現を借りれば「戦争に負けて正気に戻った」のだろう。「日本国民、12月8日に呆然として、そのまま、呆然と、戦争のなんたるかを知らぬまま、知ろうともしないまま、戦争を他人事と受け取って、呆然と過ごし、8月15日、ようやく戦争を認識した」のだ。
これからどうやって生きていくのか、分からないからこそ混乱する。そうした混乱が日記にもあらわれる。しかし、この混乱こそが正気である。今までが惚けていたのだ。
冒頭の紹介文にあるとおり、当時の大人たちが戦争による被害を、地震か台風が来たかのように「しようがない」で済ませている姿勢が非常に良く見てとれる。野坂は言葉であからさまな糾弾をしない。しかし、最終回で再び森脇瑶子さんの「一生懸命頑張ろうと思う」という言葉を引くことで強烈な批判を暗にしているのだ。そうした少年少女たちの思いと生を引き裂いた戦争に対して、生き残った野坂は伝えるべく「頑張ろう」としているのだろう。