あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

教室内カースト鈴木翔/著 本田由紀/解説

教室内(スクール)カースト (光文社新書)

教室内(スクール)カースト (光文社新書)

「なぜ、あのグループは教室を牛耳っていて、このグループには“はしゃぐ権利”すら与えられていないのか――」。スクールカーストとは、主に中学・高校のクラス内で発生するヒエラルキーのことで、小学校からその萌芽はみられる。同学年の子どもたちが、集団の中で、お互いがお互いを値踏みし、ランク付けしていることは以前から指摘されており、いじめや不登校の原因となるとも言われてきた。
本書では、これまでのいじめ研究を参照しながら、新たに学生や教師へのインタビュー調査を実施。教室の実態や生徒・教師の本音を生々しく聞き出している。生徒には「権力」の構造として映るランク付けが、教師にとっては別の様相に見えていることも明らかに……。本書ではまた、中学生への大規模アンケート調査結果もふまえながら、今後の日本の学校教育のあり方に示唆を与える。解説・本田由紀

 甲子園で活躍する高校球児や正月の国立競技場の高校生たちが「同世代なのにスゲーなぁ…」と思っていたのだが、ついに研究者でも新書を書く人たちが出てきましたよ。東大の社会学研究所は上げ潮ムードだなぁ・・・。古市憲寿に続いて1984年生まれの鈴木翔である。
 本書のタイトルにもなっている学校内カーストもとい「スクールカースト」は以前より、教育関係者や研究者の間で使われていた言葉である。周知の通り「カースト」はインドで職能や血統などによって形成された社会階層である。そのカーストと似た階層(というか序列というか)が学校の「学級」内部で形成されていることから、このことを「スクールカースト」と呼んでいる。
 ただし、管理人の個人的な印象に限れば、実際の教育現場ではそれほど頻繁に使われるような言葉ではなく、それが「カースト」であると意識されていない節があるように思う。

 ともあれ、研究者によってはこのスクールカーストがいじめの構造的要因であると指摘するものもいる。たとえば内藤朝雄の『いじめの構造』で主張されるように、いじめが閉ざされた教室内での生徒間の関係性の中で惹起する(それを「中間集団全体主義」と内藤は呼んでいる)ものだとすれば、教育社会学研究者はもっと、このスクールカーストを正面から取り上げてしかるべきであろう。というのが、研究動機とのことだ。
 その上で、なぜ、同一学年による一見平等な教室内において、そのような「カースト」が誕生するのか? 学校は特定の生徒やグループをあらかじめ優遇し、他の児童・生徒に特別扱いを強いるように教育するわけでもなければ、日本社会は諸外国のように身分や階級が厳然と存在するわけではない。 だとすれば、それは児童・生徒が持っている何らかの文化的資源が影響しているはずである。

 そして、結論を言ってしまえば、本書「はじめに」で書かれているように、多くの人びとが学齢期に感じていた、教室内でのリーダーグループと、フォロワーグループを分ける差は「学校の成績や顔、異性ウケ、運動神経、コミュニケーション能力」と挙げているが、調査の結果から類推するに、おおよそ、それらの要因がスクールカーストの上下グループを分ける契機となっているのはどうやら否定できない。(むしろ、「諸外国に比べて」極端に平等にある日本社会で、「学級」を基礎単位とする学校生活を送ろうとすればそうした児童・生徒の文化的資源しか彼らのグループ分けをするものはなくなるのだろうコトは想像に難くない。)ただし、児童・生徒自身はそこまで具体的それらの要因を認識してはおらず、結果として上位グループと下位グループのようにいくつかの階層にグループ分けしているようである。

 また、そうしたスクールカーストは当然、カースト上位グループに属する生徒にとっては「楽しい学校生活」「楽しいクラス」という印象を持たせ、カースト下位グループの生徒には学校生活が面白くない原因となる。

 さらに、教員もそうしたスクールカーストを認識し、積極的に利用している。教員はそれらのカーストは積極性やコミュニケーション能力などの「能力」によるものと理解しており、自己に欠けているところを認識し「改善」できる契機ともなるスクールカーストを肯定的に捉えている。


 さて、このように展開される本書は「はじめに」でも述べているように、ベネッセ教育研究開発センターなどのデータも用い(あるいは協力している?)神奈川県内の公立中学生3000人あまりと、大学生10人の聞き取り調査、現役教員4人の聞き取り調査をしている。
 著者も指摘しているとおり、現役教員による聞き取りは人数は4人であり、著者の知人に限定されている、いずれも20代の男性教員であり、社会学的な調査としてデータに値するのかは疑問である。そして、この4人の教員の声を「教員代表」として本として紹介してしまうのは学問的にちょっとどうなのか?という気もしなくもない。

 (個人的にはスクールカーストは肯定するものではないと思う。日本の学校教育が「学級」という単位を基礎とする限り、スクールカーストからは逃れられないが、教育の目的である人的陶冶の観点に立つ限り、そのような関係を公然化して、教員がそれに荷担する形でカーストの強化にもつながる行為をするのは論外であろう。一例として、スクールカースト上位の生徒と下位の生徒が同じ失敗をした場合の対応の違いを紹介して、カースト上位者の方が対応が甘くなるというが、むしろそれは適当ではない。スクールカーストがコミュニケーション能力や性格に起因しているものであれば、「大人しい」「文化部的趣味」のような価値において無差別である要因によってカースト下位に位置づけられて当然と言うことはない。むしろ、教員はそのことを自覚して、そのカーストを積極的に「引っ掻き回す」を絶えず行い、カーストが固定化しないように努めるべきなのだと思うのだが)


 また、生徒文化がカーストを生み出すのであれば、それは学級を単位とする他の国にも見られるのか、その生徒文化とは何なのか?そこに焦点を当てた研究といいながらも、今ひとつその視点は弱いようにも思う。
 仮に、支配的な生徒文化としての文化資源を持っていればカースト上位グループになれるのか、それとも、あくまでも他の生徒との関係性の中で築かれるものなのか、そのあたりも、もっと掘り下げられる余地があるだろう。たとえば、学校や学級担任によって、同じ文化資源を持っていてもカースト上位グループになれるorなれないがあるとすれば、それはどのような理由によってなのか? いろいろ興味は尽きない。

 ともあれ、このスクールカーストに目をつけた初の新書がこれが修士論文なのだというのだから、末恐ろしいものである。