あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

ノルベルト・ボッビオ『右と左―政治的区別の理由と意味』

右と左―政治的区別の理由と意味

右と左―政治的区別の理由と意味

 ネトウヨ、はてサって何なんだろうか?エントリに、右翼左翼って何なんだろう?的な話が時々出てくる。確かに政経あたりが得意だったり好きだったりする高校生は「右とか左」あるいは「右翼左翼」って何なんだろうか?と思ったりするようだ。
 ボッビオはイタリアの法哲学者、政治思想史家である。
 タイトルに引きずられてしまいがちだが、私はボッビオの力点はサブタイトルにあるように「政治的区別の理由と意味」にあるように思われる。
 冷戦構造が終結し、社会主義の存在理由が無くなった現在、「右」や「左」といった区別を今更持ち出すのは時宜を外しているのではないだろうか(イデオロギーの終焉のように)。あるいは政治には様々な立場があるのだから、左右の対立のように二元論に収斂させてしまう思考法は不完全なのではないか。さらにはそうした議論の延長に、20世紀の終わりから緑の党など、左右いずれにもまたがってくるような政治思潮が出てきた。つまり現在ではそのような区別は時代錯誤なのではないか。
 しかし、ボッビオはそうした議論に与しない。二元論による思考法は政治領域に限らず、社会学、経済学、美学、哲学といった広い学問領域で行われている。つまり一方が存在すればそのカウンターパートとしての他方は存在するのであり、逆説的に言えば存在する以上は左右による政治的区別には意味があるとする。
 左右による区別はフランス革命に起源を持つ歴史的な物であり、偶然的な要素も存在した。それゆえにしばしば「ある思想が」が左右のいずれに属するのか区分が困難なケースが存在する。例えばヒトラーは「世界で最も革命的な保守主義者」を自称した。このような場合はどのように考えればよいのであろう。ボッビオはこの場合は左右ではなく、穏健/過激といった「方法」上の区分であろうと考える。つまりファシズムやナチズム思想は左右でいえば右翼思想(保守主義者であるから)であるが、同時に民主主義に対する価値にたいして過激な立場をとっている。つまり、左右とは別の基準が存在する。二元論的思考法だからそれはそれで問題がないのだろう。従って、極右・極左共に思想は違えど、両者のスタンスは驚くほどに通っている。スターリニズムやナチズム、または日本における軍国主義などが大きく「全体主義」という枠でくくれるとしたら、それは民主主義に対する姿勢が(反民主主義ということで)共通するからであろう。
 そうした方法上の区分は本来の「価値観」に基づく左右の区分に比べると弱い。従って、イタリアではファシズム期にファシストと穏健保守が一括されたのである。ボルシェヴィキファシストが連合を組まない理由はそこにある。
 ここから明らかなのは二元論的思考は一つの軸が定まると他の二元論が妨げられるという事にはならない。時間軸,空間軸はそれぞれに存在する区分であり、両者は相互に妨げられる関係にある訳ではない。リーダーとフォロワー、敵と味方、上と下...、これと同じように右と左という軸が存在するのだ。
 ただし、「敵/味方」や「美/醜」のように常にマイナスイメージを帯びる「敵」ないしは「醜」と異なり「右」「左」どちらの言葉にも価値判断は伴われない。(それぞれのイデオロギーに立脚する者だけが「左/右」にプラスマイナスのイメージを自ら付着させる事になる)
 その上で、ボッビオは更に3人の学者による定義を紹介している。
 ディーノ・コフランチェスコによれば右翼とは伝統を、左翼とは解放に価値を置く思想だとしている。さらにこの軸を更に細かく、それぞれの中にロマン主義か現実主義か、という分類があるとしている。(だが、コフランチェスコ四象限に分類するような思考ではどうもなさそうである)
 エリザベータ・ガレオッティは右翼を階層、左翼を平等に価値を置く思想だとしている。(右翼を反平等としないのは、自由競争にたいする態度や、差別に対する態度などが存在するからだろう)
 今、挙げた2人の議論は右と左にそれぞれ核になる、いわば本質主義的な左右の軸を考えているのだが、マルコ・レヴェッリは左右は政治空間における相対概念であるとしている。従って、実質的/実体的概念ではないから、ある時代において社会が「右傾する」「左傾化」などといった表現が使われうるのである。その上で、レヴェッリは5つの基準が左右の軸に特徴的に現れるとしている。時代における「進歩/保守」、空間における「平等/不平等」、主体における「自己指導/外部指導」、機能における「下層階級/上層階級」、認識における「合理/非合理」。これらのうちに特に重要なのが「平等/不平等」であるとしている。
 ボッビオは特に断定はしていないものの、レヴェッリの枠組みを左右の議論のベースにしているように思われる。私自身も相対概念であるというレヴェッリの枠組みは現実政治の争点対立から、政党間のイデオロギー距離を測る際に使い勝手が良いのではないかと思う。もっともボッビオはレヴェッリが特に重要とし、ガレオッティなども注目している平等をやはり重要だと考えているようである。人間は本来、平等な存在なのか否か。また自然の平等/不平等、社会の平等/不平等があるが、社会の不平等は除去しうるものだと考えているところに左翼の特色があると考えている。例えば女性解放運動を考えてみよう。左翼は女性の置かれている様々な不平等な状態を政治的に是正出来ると考えている(人為主義)。過去・習慣・伝統といった要素も社会的な不平等であると考え、これに対して右翼はこれらの要素は自然的なものに近いと判断するがゆえに、ある程度不平等に対しても涵養であるとしている。(これが価値判断的に悪いという訳ではない)
 ルソーは人間不平等起源論において、文明化される以前の人間は平等な存在として生まれていたが、文明化(=社会化)によって不平等な状態になった。(したがって社会契約によって平等状態を取り戻さなければならない、という議論を『社会契約論』などで展開している)これに対して、ニーチェはこの議論を反転させた立場に立つ。左翼はまさにルソー的な態度であり、右翼はニーチェ的な立場であると考えられる。

 本書の最後でも述べられているように、ボッビオ自身は常に「左」の側に立った学者であった。しかし、本書の目的は冒頭に登場したような左右の区別はすでに時代遅れでも、不適当なわけでもなく、ある価値基準を軸に展開される相対的な政治区分である事、またその多くの議論を紹介する事によって、自らの思想を再認識する契機とする事である。