あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

インバル指揮/東京都交響楽団 マーラー交響曲第9番

東京芸術劇場リニューアル記念公演《新・マーラー・ツィクルス-9》
マーラー 交響曲第9番
 今日は先週の土曜に続く、2週連続で、インバル&都響によるマーラーシリーズを聴く。今回聴いたのは第9番。
 個人的には2番や3番よりもスッキリとしていて聴きやすいと思う。理解しやすいかと言えばそうではないのだけれど。
 先週の「千人の交響曲」と違って、今日は定期演奏会や作曲家の肖像シリーズのような都響主催公演ではないから、今日のパンフレットは今回限定の特別仕様になっていた。解説は日本におけるマーラーの9番需要史のような内容である。面白いけれど、「月刊都響」の岡田暁生解説の方が面白いな。
 今回は特に、先週の8番と間隔が短いせいか、対照的な内容である事を強く意識させられた。ある意味で単線的な、賛歌及び救済・救いの8番に比べて、死生観漂う9番の円環的な演奏が面白い。
 
 そこへ、東京芸術劇場の豊かな残響がマーラーの9番をまことに包容力ある、それでいて深遠なる宇宙や死生観の世界へと誘うように作用していたと思う。マーラー演奏において、都響は世界レベルに達しているんじゃないか?と強く感じるようになった(前から日本においてはトップだなぁとは思っていたのだが)。
 他のオケで9番を聴いた時には3楽章や4楽章で「一生懸命さ」が感じられてしまうが、都響はそれよりも、もうワンランク上の演奏をしている。インバルの表現がバーンスタイン山田一雄のように、マーラーの中に自ら突っ込んでいって、その中で燃焼しているような演奏だとすれば、インバルはマーラーに共感し敬愛しながらも、その作品を理知的に、職人的に表現しようとしている。もちろん、ショルティのように完全なる職人芸ではない。両者の中間的な位置にありながら、その表現力と、表現しようとする指揮者の意図を都響と高い次元で統合しえているのだ。まさに圧巻だったのが4楽章の救済と眼前に迫った死に直面して懊悩する魂を表現するかのような弦の叫び!!!
 まさか日本のオケでこれほどの演奏が聴けるとは思わなかった。
 インバルの年齢(77)を考えると今回のチクルスが恐らく最後となるだろう。しかし、日本のマーラー演奏史において今回のチクルスが不滅の足跡を残す事は疑い得ない。それほどの演奏であると確信出来る。この一連の演奏の多くを聴けた事は幸せであった。