あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

マイ・ウェイ

 社民党元党首 土井たか子氏が死去 NHKニュース
 女性として初めて衆議院議長を務めた、社民党の元党首の土井たか子氏が死去しました。 85歳でした。 土井氏は昭和3年、神戸市に生まれ、大学で憲法学の講師を務めたあと、昭和44年の衆議院選挙に旧兵庫2区で旧社会党から立候補して初当選し、連続12回当選しました。 この間、土井氏は昭和61年に旧社会党の委員長に就任し、平成元年の参議院選挙では「ダメなものはダメ」ということばで「反消費税」を掲げ「マドンナ旋風」「おたかさんブーム」を巻き起こし、自民党過半数割れに追い込みました。

 欧州政治を研究していた大学時代の師匠が「彼女は政治家というよりアジテーター」と評していたのが印象に残っている。師の研究対象には社民主義に親和的だったから尚更だった。
 去年(2013年)の政治学会では「現代日本の女性と政治指導」のタイトルで、学会報告が行われていたが(北海道だったので行けなかったが)、そこでのサマリーがまさに客観的には一番ピッタリくると思う。
 土井たか子はいつも男社会の尻拭いに持ち上げられた感がある。社会党時代は田辺誠、社民党時代は村山富市によって傾いた後始末をした。もっともそれが、反戦・平和という土井の一面ばかりがクローズアップされがちなネット上での評価とは異なって、高度経済成長期における女性の地位向上とパラレルな関係にあった。いや、日本社会にあってもっとも自由が必要でありながら最も封建的であった政治の世界に風穴を開けた功績は大きい。実際に、国籍法の問題や、男女共同参画社会につながる質問を当選後数多く行っているところから、自らを「女性政治家」であると背負った政治家であったと思う。

 その結果が前例無き女性党首(社党委員長)や衆院議長を引き受け、社民党時代は議員の男女比を半々にするなど「男女共同参画」とか言われる前に行動で示したのは評価すべきだろう。セクハラヤジが性差別的な暴言であるという「社会常識」が「常識」となるには、土井ら先人の役割なくしてはあり得なかったと思う。

 平和・護憲活動について言えば、『火垂るの墓』の野坂昭如と同じく20万人以上の犠牲者を出した神戸空襲を経験し、青春時代に友人・知人を多く失い、また、開業医の娘として多くの戦争犠牲者を間近で観てきた「原体験」が、戦後の憲法学者、政治家の原点であるコトを思えば、それはむしろ当然であったろう。私の祖母も土井とほぼ同世代であるが、空襲経験がほとんどない、地方の農村で暮らしていたにもかかわらず、自身の保守的な信条であっても戦争だけは絶対に反対し、護憲の姿勢は崩していない。

 一つの時代を象徴する政治家であったことは疑い得ないだろう。