映画「ハンナ・アーレント」
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アイヒマン裁判にフォーカスを当てた映画であったが、アレントのこのテーマにおける主張はかなり明快に描かれていたように思う。(政治哲学者を主人公に持ってくる映画というのも日本では考えにくいよな。)
アイヒマンは当時の多数がそう望んだように、反ユダヤ的・ナチ的世界観を持った、ラスボスに出てくる悪人ではないことを映画の中でアレントは発見する。自分の職務に忠実な、事務処理能力に長けた、恐らく“平時”における極めて優秀な役人が、ナチ体制下でどのような役割を果たし、それが何をもたらすのか。だからこそアレントは「悪の凡庸さ」と表現したのだ。
その指摘は今日では全く正しいと思われる。自分は『イスラエルのアイヒマン』が積ん読状態なので、ナチ体制下のユダヤ人指導者についての言及は今回の映画で、併せて考えるきっかけになった。支配体制に組み込まれた被害者の一部の問題は、確かにアレントが指摘するとおりである。その一方で、ハンス・ヨナスやクルト・ブルーメンフェルトら旧友たちが袂を分かつような反応をしたのも理解できる。事実を受け入れられるほど人は強くはない。その葛藤も当然アレントは抱えている。しかし、自らの学問的良心に仕えることを選ぶのだ。(あまりにアレントの議論が普遍的過ぎ、ユダヤ人におけるアイヒマン問題が党派的過ぎる当時の社会状況もあるのだろう)
だからアレントの議論は関係者が存命中こそ議論されるべきなのだが、実際に学問的に議論されるのは映画の中でも特別講義を受けた学生たちが喝采するように、その次の世代になってしまう。ただし、このユダヤ人指導者とそれがもたらした被害の関係、またアレントの議論におけるその後の反応は、現代の社会問題を考える上での思考における補助線の役割を果たすかもしれない。
米軍の沖縄基地問題や福島の原発問題など、日本国内でも類似の構造を指摘できるだろう。終盤でアレントは学生を前に特別講義を行うが、そこで出てきたアイヒマン的「思考不能」ではなく、「考える」人間になることが、重要なのである。もちろん、「考える・考え続ける」ことがドラえもん的な解決には繋がらない。アレントの政治哲学は最悪にならないために日々、人間が積み上げていく営為について、その示唆を与えるものであり、それがWW2以後の政治哲学だろう。
- 作者: ハンナ・アーレント,大久保和郎
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