あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

東京都交響楽団 第849回 定期演奏会

指揮/エリアフ・インバル
ショスタコーヴィチ交響曲第7番 ハ長調 op.60《レニングラード

 都響/インバルによるショスタコーヴィチレニングラード」を東京文化会館で聴く。冒頭から厚みのある弦の合奏に人々の日常を感じ、彼方からやって来る軍靴の足音が徐々に迫って来る感じは鳥肌が立つほど。人々の生活が戦争の不条理に飲み込まれ、人間が踏み躙られていく。戦争のテーマが咆哮するところで文化会館の舞台に鐘塔が崩落していく感覚を覚えたのだ。機関銃によって次々人々の生が奪われるような音楽。同時代に生まれたインバルにとってみればこの曲は自らの生と地続きなのだ。直感的に戦争の実相が伝わってくる。ああ、コレはそんな曲なんだ。圧倒的な説得力。
 第2、第3楽章は純音楽とでもいうのかな。そこにあった生活への回顧、その後に現れた社会のグロテスクな現れ。解説にも、色んなところで読んだけれど、その現れは反ファシズムや反全体主義なのだろう。クラクフ旅行で見た、ナチスユダヤ人政策に関する博物館資料やプラハ旅行での社会主義博物館、語彙が貧困でうまくは言えないけれど、その時感じた時代性みたいなもの感じた。なんか書いていて、スピリチュアルな気持ちの悪さがあるんだけれど(苦笑)、あれはなんなんだろうか。第4楽章の白兵戦的な場所はちょっと現代っぽいというかハリウッドっぽいというか、サクサク戦っている!?
 もっとグッとテンポを落としてやるのかな、と思ったけれど、違うんだなぁ。ともあれ、この辺り、インバルの薫陶を得た都響が弾くと合奏能力の高さも相まって、とてつもない迫力だ。それがそのままコーダに連なるのだから、圧巻である。永遠に記憶に残りそうなショスタコーヴィチだと思った。
 昨夜のインバルを聴いたあとにも思ったが、この国で名匠・巨匠とされる条件は80歳を過ぎてもなお矍鑠と活躍できる健康に恵まれる必要があるのだろうな。最近もエリシュカ、ブロムシュテット、(デュトワを入れても良い?)。ちょっと前ならスクロヴァチェフスキ、フルネ、ヴァント、朝比奈隆・・・。彼らを「シルバーシート」と言って馬鹿にする向きもあるが、自分はそうは思わない。作品に対する、ある種の「答え」を提示するだけの経験と、そこへの踏ん切りに加えてオケに遠慮なく振る舞える貫禄とオケ側の尊敬が合致した時、名状しがたい奇跡の瞬間が生まれるのだと思う。