あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

やっぱりというか、当然というか。

まずは毎日の記事から

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060327-00000106-mai-soci

<オウム>松本被告、死刑の公算大に 高裁が被告側控訴棄却

 地下鉄、松本両サリン坂本堤弁護士一家殺害など13事件で殺人罪などに問われ、1審で死刑判決を受けたオウム真理教アーレフに改称)の松本智津夫麻原彰晃)被告(51)について、東京高裁(須田賢(まさる)裁判長)は27日、被告の訴訟能力を認めたうえで、控訴を棄却する決定を出した。最高裁の統計がある78年以降、1審で死刑とされた被告の控訴審が、棄却決定されるのは初めて。事件の首謀者とされる被告に対し、高裁で一度も公判を開かずに死刑判決が確定するという異例の事態となる見通しとなった。
 弁護側は28日に控訴趣意書を提出する方針を示していたが、提出期限は昨年8月末で大幅に遅れており、高裁は提出の遅れが裁判を継続するための「やむを得ない事情」に当たらないと判断した。弁護側には高裁に異議を申し立て、さらに最高裁に特別抗告して争う手段も残されているが、この際の審理対象は裁判手続き上の誤りがなかったかどうかに限られ、退けられる公算が大きい。
 弁護団は期限だった昨年8月31日、控訴趣意書の「骨子」を高裁に持参しながら、鑑定への立ち会いなどを拒否されたことから提出しなかった。このことについて、決定は「鑑定方法などの問題と趣意書の提出期限順守の問題は、全く次元が異なる別個の問題。鑑定方法は裁判所の裁量に委ねられ、鑑定方法に納得できないとしても不提出が正当化されるとは考え難い」と指摘した。
 さらに、控訴趣意書を提出しなかった行為について「被告から実質審理を受ける機会を奪うという重大な結果を招くおそれをもたらし、弁護士の職責からみても極めて問題がある」と批判。さらに、裁判所が期限後に、数度にわたって趣意書提出を強く求めたことから「刑訴規則の『やむを得ない事情に基づく』とは認められないのは明らか」と判断した。
 また、決定は先月の鑑定結果に基づき、松本被告は訴訟能力を欠いていないと結論付けた。
 高裁は04年6月、控訴趣意書の提出期限を05年1月11日と指定していたが、弁護団が「被告と意思疎通ができず、趣意書は書けない」と主張し、期限を同年8月末に延期した。さらに被告の訴訟能力の有無を判断するため精神鑑定を実施。2月20日に「訴訟をする能力を失っていない」との鑑定書が出されていた。
 刑事訴訟法は、裁判所が指定した期限内に控訴趣意書を提出するよう定め、これに違反した場合は決定で棄却するよう規定している。一方、刑事訴訟規則で「遅延がやむを得ない事情に基づくと認めるときは、これを期間内に差し出されたものとして審判をすることができる」との規定も設けられている。【武本光政】
 ▽松本被告の弁護人の声明 元来、公判を停止して治療すべきであるにもかかわらず、控訴審を開くどころか控訴棄却としたもので、裁判所がすべてを闇の中に葬り去ろうとしていることは明らか。直ちに棄却決定が無効であるとして異議申し立て手続きを取ると同時に、可能な限りの手段を講じて裁判所の暴挙を糾弾していく。
 ▽東京高検の笠間治雄次席検事の話 弁護人が正当な理由もないのに期日までに控訴趣意書を出さなかったのであるから、かねて当庁が申し立てた通り、裁判所が控訴を棄却したのは極めて妥当である。
毎日新聞) - 3月27日21時31分更新


 麻原彰晃こと本名・松本智津夫が裁判の途中からすでに人格が崩壊しているというのはいろいろなメディアによってすでに報じられてきたので、これまでの弁護側と検察側のやりとりを見ていても、見ているだけで徒労感というか虚無感に管理人が駆られてしまう。
 責任能力の如何が問われているのだけれど、責任能力の如何に関わらず、オウム真理教(現在のアーレフ)の起こした一連の無差別殺人事件はきちんと裁かれてしかるべきだろう。
 なぜこうした事件が起こってしまったのか?といった問題提起や分析は社会学者や心理学者、あるいは精神科医などからなされればいいと思う。だから、そういった問題提起自体は無意味だとは思わないし、今後、同様な事件が発生しないためにも必要ではあるだろう。その点、管理人はそうした議論をすることは好ましいと考える。
 しかし、弁護側の主張のように、後半を停止して麻原の治療に専念する、というのは弁護人の立場からすれば理解できるが、裁判所はやはりそれを認めるわけにはいかないだろう。


 ここでは基本的人権の観点から、全ての人に公平な裁判がなされるべきだという近代以降の国家の基本原理と被害者の人権という相反する問題が含まれているように思われる。
 麻原の裁判であるのだが、これをきちんと行うことが結局は私たち一般市民の人権を守ることに繋がるという意見は真っ当だろう。その考え方からすれば、時間が掛かっても良いからきちんとした裁判が行われることが望ましい。
 殺害された被害者自身は既に故人であるので、極論からすれば裁判の早い遅いは関係のないことになる。
 しかし、この問題は複雑だ。
 第一に、殺害された被害者がいる一方で、殺害までには至らないものの、現在もその時の後遺症が残る被害者が存在することである。第二に、被害者の遺族または家族の問題だ。
 ただし、死刑制度の存在自体、管理人は遺族への報復感情を政府が代執行している、つまり必要悪と認識しているので、究極的には感情よりも国家の形成原理は上位に来るべきなのだろうと思うが…。
 なので、管理人としては究極的には現在を生きている被害者のために裁判を早期に結審することが望ましい。もっとも、遺族感情の問題として、公判中に被告人が他界といったのでは良くないのは当然だから、その点から考えても早期結審は必要だ。
 麻原の逮捕からもう10年以上が過ぎた。大きな事件であったが、もう結審しても良いのではないか?と思う。


 それにしても余りに長い裁判だ。凶悪事件や、規模の大きな事件に対する裁判の迅速化は真剣に模索されなければならない。裁判制度のあり方自体を考える必要が出てくるだろう。
 しかし、それは今後の問題であって、現行制度の中で最大限出来ることを考えると、やはり今回の決定は最善とは言えないにしても、やむを得なかったところだったろう。