保坂正康『敗戦前後の日本人』
- 作者: 保阪正康
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2007/08/07
- メディア: 文庫
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ノンフィクション作家である、保坂正康の視点は、いわゆる「戦後民主主義」の第一世代である。
本書の構成としては1945年の8月15日を境に何が変わり、何が変わらなかったのか、ということに関していくつかのトピックを採り上げつつ、時系列的に扱っている。
戦争経験世代が徐々に少なくなっていく中、いわゆるアジア太平洋戦争の時に少年時代を送った著者があの戦争をどのように見たというノンフィクションとでも言えば分かりやすいだろうか。
戦争体験の難しさは100人いれば100通りの戦争体験があるわけで、当然その個人差によってあの戦争の位置付けは異なりそれが戦後あの戦争における定式化を「ある意味で」許さない結果になった。
なぜそうなるかといえば、本書でも描写されるように国内においてアジア太平洋戦争の政治的責任がハッキリと認識されなかったことによるのであろう。本書を読むと、「よくもまああんな政治家や軍隊に日本人は国の運命と自分の命を預けていたのだと思うだろう」(本書解説・石川好の文章より)と感じさせるに充分である。しかしながら、そうした事態を招いたのは他ならぬ日本国民であり「一億総ザンゲというカタルシス」によって、戦争責任に対して向き合うことを避けた結果でもあるだろう。
私自身の考えは置いておいて、戦後民主主義第一世代の保坂らしいと感じだ部分を採り上げてみる。
本書においてその中核をなす8月15日の「はたして誰が泣いたのだろう」は次のような一文から始まる。
「八月十五日に、はたして人びとは泣いたのであろうか」
そして、保坂自身はこのようにその日の記憶を辿るのである。
「私の記憶する八月十五日には、涙はない。子供心にあったのは、たぶん恐怖から解放された喜びだったのではないかと思える。そして、わたしは、恐怖から解放されたと受けとめた国民は意外に多かったのではないかと思っている。涙というのは、その解放感の後にやってくる贅沢なカタルシスではなかったのかと思えてならないのである」
だから「八月十五日の涙は、決して単純にひとつの見方で割り切れない面を含んでいる」のである。
従って本当に「涙を流した」軍事指導者や政治指導者らの心理と市井の人びとの涙は同じ次元の涙ではなかったである。そして「この日に涙を見せなかった人びとは、それをことさら伝承していないことに気づかなければならない」
その理由として、保坂は最後の一文を次の言葉で締めくくっている。
「大日本帝国はすでに内から崩壊を始めていたからである」
全くの余談であるが「8月15日に戦争が終わったと教えられて、あれだけ嬉しかった時はないよ」と、かつて私に話してくれた祖母の言葉をその文章を読んだとき、ふと思い出した。
オススメ度→★★★★☆