あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

文化祭、講演会エトセトラ

そんなわけで、三田祭に行ってきた。
スゲー三田祭賑わっているの。

たこ焼きとかフツーに美味そうだし。
まー、タコは少ないんだろうけどね。なんせ稼ぐ気になってるモンな。

大阪出身のヒトとか、気合いを入れて作ってくれたりしてんのかな。
文化祭は青春の香りですねえ。

それはともかく、今回の目的はコレ。
八柏龍紀×森達也 ― 権力とアウトサイダーを語る

@慶応大学三田キャンパス(11/23)

 てなもんで、まー行ってきたわけですよ。講演会。自分もちょこっと噛んでるという事情もあるんですが…。

 森達也は映画監督というかドキュメンタリー作家というか…。最近は執筆の割合が高いんじゃないでしょうか。


 まー、ウダウダ言ってもしょうがないので。


 森さんは弱い動物には共同体をつくる本能がある。人間も、純粋な身体能力はとても弱いので共同体を作る、と。
 知能を持つ人間はその後、動物界のヒエラルキーの頂点に立つわけですが…。

 ただ、いくら高度に文明を築いてきたとはいえ、動物本能が無くなったわけではない。したがって、共同体から「はみ出す」存在は本能的に恐怖を感じるわけだ。
 森氏はそれを「鋳型」と呼んでいた。

 オウム真理教による地下鉄サリン事件はホントのところ、その動機が分からない。
 人間は「分からないもの」に対する恐怖が潜在的に存在する。

 オウム事件以降、日本社会はそうした「分からないモノ」を排除するシステムを作り上げていった。
 そーすると「共同体」を守る、いわば「Security」が社会で大きな位置を占める。
 Securityは管理と結びつき大衆を監視する。
 そして、大衆も「私たち」と「奴ら」の思考の二分法化を進めていく。 

 次いで話した八柏さん

 アウトサイダーを「反権力」と捉えるだけではなくて「排除された人々」として考えてみる。

 最近の流行、たとえば「ケータイ小説」に出てくる主人公は「フツーの女の子」であることがウリである。そして、現代における、この「フツーさ」は自身を「イノセント」な存在として自己規定する要素をも内包している。

 「純粋さ」、「イノセント」といったものは当然のことながらそこに含まれないものを置く。現代社会において、その端的存在はホームレスであろう。

 ホームレスは現代社会では、存在するものの、いわば「不可視化」されてしまい、我々の意識にのぼることはない。

 中世の日本でも当然、アウトサイダーは存在していた。
 しかし、方丈記をはじめとする中世の文学作品には、アウトサイダーは(たとえば「河原乞食」といった表現で)登場している。

 もちろん、そこには差別や偏見があっただろうが、彼らの存在そのものを排除するというコトはなかったであろう。


 まー、2時間30分の講演だったから、端折りまくってますが、管理人の気になったエピソードとしてはこんな感じ。


 以下は、管理人の「考えるネタ」

・人間は分からないモノを怖がる、は同意するとして、果たして、犯罪行為を合理的に説明しうることがいつでも可能か?
→合理的に犯罪行為を説明しうるなら、犯罪抑止力としての死刑制度があるにも関わらず犯罪存在することなど、などまるっきり説明がつかない)

・権力とアウトサイダー的な問題設定が特殊日本的な考え方だといえる
→つまり日本社会の問題として存在するのが、この「権力側」と「アウトサイダー側」が一貫して固定されていたと言うことだろう。
 大学アカデミズムを含めて論壇は確かに左派(マルクス主義)あるいはリベラル派(市民派)の影響力が強かった。
 しかし、それはあくまでもその中にとどまり、現実政治では一貫して保守派による政権担当が続いていたのである。

 これが、ストラテジー(戦略)としてアウトサイダー側の政権獲得という観点を長年にわたって欠如させた一つの要因であろう。
 つまり、アウトサイダーたる個人は社会生活のすべての領域にわたって「アウトサイド」にいるわけではない。それぞれ個別の政策について、あるいは価値観について「アウトサイド」にいるに過ぎないのである。
 
 政治において「権力」というものは絶対に無くならないものである。そして政治にはその権力による「決断」という契機を内在させている。だとすれば「権力に対峙」するだけではなく、「権力をハンドリングする」という、いわば「権力獲得の意志」といったものをもっと考えるべきではないのか。

 保守派が権力獲得への意志を前面に出している(かつての社会党との連立工作や、今回の民主党との大連立構想をみれば分かる)のに対して、「保守ではない」側は、自らの価値観ばかりを喧伝し、「だまされるな」とか「リテラシー」ばかりを唱えている。
 メインストリームに属さない価値観は「非国民」と烙印を押され、永久にアウトサイドのままでいる。

 「対立」と「境界線」が政治において無くならない以上、その対立自体を「相対化させる」努力が必要だ。そのために、相手の批判だけでは十分ではない。
 多数代表という選挙制度という現実政治の中で、いかにストラテジーとしての権力獲得を図っていくか、という視点が重要であると思う。