あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

ジュリアス・シーザー

 シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』をさいたま芸術劇場で観た。舞台全体に広がる階段状のセットを終始、効果的に使っていたなと思う。石像を変えるだけで場面転換出来るのはさすがだ。そして今回はキャストが豪華すぎるほど豪華であった。今後このレベルでの芝居が観られるか、というくらい。
 阿部寛は非常に誠実そのもののブルータスを演じきっていた。なんだか逆に清く貧しく美しくでは政治を生きていくことは出来ない、というメッセージにもとれてしまうわけだが。最大級の名誉が与えられる裏には当時のそうした背景もあるのではないか。そしてキャシアスの吉田鋼太郎は今回もアクセル全開だ。
 とはいえ、今回のキャシアスはどうもホモソーシャル的な側面が強いような気がする。キャシアスに妻が出てこないからかもしれないが。圧巻なのは間違いない。アントニー藤原竜也は、中盤から吉田鋼太郎化していた。みんな舞台上で雄弁家になるとあのような芝居になるのかなぁ・・・その辺難しい。
 パンフレットには民衆/市民が同列になっていたけれど、あれは故意であれば政治学的には結構、厳しいツッコミを入れられたなぁ・・・と思った。共和制ローマにおいて「市民」であることと、それが「民衆」として暴徒化することの両義性はまさに永遠のテーマだろう。それでもなお、なのだ。
 やっぱり共和制ローマカエサルが終身独裁官になってしまったのが不幸のはじまりなんだろうな。誰もそれを望んでいなかったものの、当人たちの意思とは別な力によって(陰謀だったり嫉妬だったり大衆の浅慮だったり)運命が狂わされる,運命みたいな、まさにシェイクスピア節全開の作品だとおもう。