あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

100分de名著 『ハンナ・アーレント 全体主義の起原』

 日本ではここ10年来、ずっとアーレントルネッサンスとでも言うかのような盛況ぶりだけれど、トランプ誕生後のアメリカでもブームらしい。
読み始めたときはちんぷんかんぷんで、最近読んでも分かりやすい本ではないと思うけれど、非常にエッセンスが分かりやすく解説されている。
いくつか抜き書き。

 自分が置かれている状況の変化をきちんと把握しつつ、「分かりやすい」説明や世界観を安易に求めるのでは無い姿勢を身につけるには、どうすればよいのか。それを考える上で、今回取り上げる二つの著作(全体主義の起原、と、イスラエルアイヒマン)が参考になると思います。
 自分たちは悪くない、と考えたい。それが人間の心理です。つまり、自分たちの共同体は本来うまくいっているはずだが、異物を抱えているせいで問題が発生しているのだ―と考えたいのです。自分たちの共同体に根本的な問題があると考え、それを直視しようとすることには大きな痛みが伴いますが、身体がウイルスに侵されるように、国内に潜伏する異分子に原因を押しつければ、それを排除してしまえば良い、という明快な答えに辿り着くことができます。
 しかし、異分子を排除したところで、根本的な問題の解決にはなりません。それは歴史を見ても明らかでしょう。日本でも、何か問題が起こると「自分たちではない」何かに原因と責任を押しつけ、安易に納得したがる傾向は見られます。「反ユダヤ主義」の巻に綴られた話は、決して遠いヨーロッパの人ごとではありません。国民国家である(と言う体裁をとっている)以上、異分子排除のメカニズムが働く危険性は、私たちの足元にある。そのことを意識して身近な事象や問題を観たり、考えたりすることが大切なのではないでしょうか。
 法による支配を追求してきた国民国家の限界が、国家の「外」に現れたのが無国籍者の問題であり、それが国家の「内」側に現れて、統治形態を変質させていくのが全体主義化だということもできると思います。
 「大衆」は、どの時代の,どこの国にもいるし、高度な文明国においてすら政治に無関心な大衆は「住民の多数を占めている」と、アーレントは耳の痛い指摘をしています。(略)しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広まると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかして欲しいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるものは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へと繋がっていったとアーレントは考察しています。
 ナチスは「ユダヤ人がいない世界」を作ろうとしたのではなく、「そもそもユダヤ人など無かった世界」に仕立てようとしたわけです。
 それが可能だったのは、ナチスがドイツ人からも道徳的人格を奪っていたからだとアーレントは示唆しています。隣人が連行されたドイツ人の無関心も、良心の呵責に苛まれることなくユダヤ人を死に至らしめた人々のメンタリティも、全体主義支配を通して形成されたものです。
 ささやかな良心のかけらもない―というところに、むしろアイヒマンは自負を持っていたのです。彼にも「わずかなりと残った良心」はあったものの、法に例外があってはならないという彼なりの順法精神によって、それは克服されてしまったとアーレントは考察しています。
 良心の呵責など封印し、ヒトラーという法に従って粛々と義務を果たしてきただけ。だから「私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺してはいない」というのであり、自分が追及される理由は「ただユダヤ人の絶滅に『協力し幇助したこと』だけ」だとアイヒマンは繰り返し主張しました。
 アーレントのメッセージは、いかなる状況においても「複数性」に耐え、「わかりやすさ」の罠にはまってはならない―ということであり、私たちに出来るのは、この「わかりにくい」メッセージを反芻し続けることだと思います。