あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

誰がための必修か?

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061026k0000m040090000c.html

履修不足>10県65校、生徒数は1万2000人に

 富山県立高岡南高校で発覚した履修単位不足問題で、新たに青森、岩手、山形、福島、石川、福井、愛媛、広島、栃木の各県の公私立高校でも必修科目を履修せず同様の単位不足になっていることが分かった。単位不足はこれで10県65校、生徒数は約1万2000人に上った。中には、履修を装った報告書を教育委員会に提出する「架空履修」もあった。各県教委や学校は単位不足の3年生が卒業できなくなるおそれもあるとして、3年生への補習授業を検討するなど対応に追われ、文部科学省も全国調査を行う。
(中略)
 こうした事態について、大手予備校の関係者は「週5日制になり授業時間数が減る中で、何とか大学受験の水準に合わせて、効率的な授業の進め方を各学校で行っている。高校での土曜日の午前中の授業がなくなった影響は大きい」と指摘。「現場の立場に立てば『苦肉の策』だったのだろう。現行の教育課程の内容と受験の現状との食い違いから生まれた問題」と分析している。

 分かり難いかもしれないけれど、高等学校の学習指導要領・総則では次のようになっている。

地理歴史のうち「世界史A」及び「世界史B」のうちから1科目並びに「日本史A」,「日本史B」,「地理A」及び「地理B」のうちから1科目
公民のうち「現代社会」又は「倫理」・「政治・経済」

 これを見て分かるように、高校では社会科とは呼ばずに地理歴史科と公民科とに分かれている。教員免許も別になり、公民の免許しか持ってない先生は地歴を教えられない。もっとも、管理人ですら地歴と公民の両方の教員免許を持ってますが…。なので取得にそれほど難しくはない。
 要するに、地歴からは世界史は必修な上に、日本史or地理のどちらかを選択必修としなければならないということだ。


 それにしても現時点で既に1万2000人。これはもっと増え続けるだろうし、こうした事例は過去にもあったのだろうと思わせられる。ただ、現場も「まさか」と思っているのではないか?わが家でも親は「ウチのところはちゃんとやっているのに…」とぼやいてたし。


 高等学校にしても大学にしても、究極のところ教育機関として、生徒(学生)の人格の完成を目指すのだろう(もっとも大学には学術・研究機関としての側面も同時にあるのだが)。
 そのような人格の完成は「道徳をただすり込むだけ」では成り立たない。あらゆる教科・科目を通じて生徒(学生)個人の人格に働きかけていくモノだと思う。それを教育学では「陶冶」と呼んでいる(J・S・ミルも同じようなことを言ってたと思うのだけど…)。
 だから、大学では1,2年生を中心に「教養科目」が多く設置されているのだろう。東大では1,2年生は教養学部に属するようだし。なにも教養主義を唱えるわけではないが、例え、文系、理系と専門が分かれるにしても、そうした専門的知識のいわば「タコツボ化」を回避するためにこそ幅広い教養が求められるし、また、そうした教養を通じて人格の完成を目指すのだろう。
 これが高校であるならば、「高校卒業段階で望まれる知性(=教養)」が必要なのだ。だからそうした本来、高校を卒業する生徒が持つべき知性のうちで最低限のモノを「必修」として履修させることにしているのではないか。
 このように考えた場合「受験に関係ないから履修そのものをしない」というのは前述した目的を達せないわけだから、明らかに問題があるだろう。


 もちろん、必修科目であってもいわゆる「内職」などをしてちゃんと授業を受けていなかった、とか反論があるだろう。けれど、その科目の目標が試験等を通じてきちんと達成されていると判断されれば、(たとえ内職をしていても)それはその科目を最低限修了したとみなせるのではないか?


 どうも、発想が「受験で使わないから」というコトなのだろう。いわば実用志向。けれど本来であれば「高校は大学の準備期間ではない」という発想がマスコミをはじめ保護者や学校関係者にも希薄なのではないのだろうか。高等学校はそれ自体が一つで完結した教育機関である、という前提に立たなければ、こうした事例はいくらでも起こりうるだろう。
 同様に、大学でも同じだ。企業が即戦力として使える人材を育てて欲しい、といった要望をしているが、果たしてその要求は妥当なのだろうか。大学は教育・研究機関である。別に企業の経済活動のための人材を生産しているのではない。


 結局、必修科目を置いてその科目を修めさせるのは、それが「巡りめぐってやがては生徒自身のため」ということを理解しなければならない。
 キリスト教がどのような過程で生まれ、それによって西洋の文化・精神面にどのような影響を与えてきたのか?そうした背景からいかに近代立憲主義体制が生まれ、合理精神から科学が発達していったのか?
 あるいは、生物はどのようにして次代に子孫を残すのか?その場合(つまりは遺伝が)、まったく親と同じ形質をそっくりそのまま受け継がないのはどのような意味があるのか? 平安時代の文章を読み、それが同じ日本を舞台としながら、いかに現代と異なり、それゆえ同じ国家といえども文化的には一様に連続しているとは必ずしも言い切れない。
 外国の文章を読むことで、また同様にその文化の相違を自ら理解し、また、言語間のズレを意識することで言葉やコミュニケーションに対する理解と関心を深める…。


 いずれの教科も単に生徒を困らせようとか、実学として使えるモノを目指しているわけではない。その教科を学び、修めることで最終的に人格の完成を期待するからこそ学ばせる(=必修化する)のである。
 その本来の意味をあまりないがしろにし過ぎたところに悲劇があるのだろう。

付記
 政府関係者は「しっかりしろ」とばかりしか言わないけれど、学校現場が政治主導の教育改革に翻弄されて、腰を据えた教育ができていない状況が生まれているのではないか?
 ただ単に、指導要領遵守を唱えるだけではなく、また厳しくチェックするだけではなく、そうした教育現場における「余裕の無さ」をいかに改善していくかという、実務的・技術的取り組みが必要である。皮肉を言うようだけど、教基法を変えればいいという問題では決してない。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/kaisai.html

 ここに教育再生会議の資料があるが、これを一読すれば明らかなように、現場の状況など一向に考慮されないあたかも「飲み屋の放言」のような無責任な話ばかりだ。