あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』

10月27日〜11月9日までの2週間、読書週間なのだそうな。

確かに、秋の夜長だし、季候も良いので読書には適した時期ですね。
というわけで。その期間は、本を読んだ感想を出来るだけエントリにしてみようと思います。コメントしたくなるような事件もなく、平和だったらだけどね。(とはいえ、もういくつかあるんだけど…)


憲法九条を世界遺産に (集英社新書)

憲法九条を世界遺産に (集英社新書)


 最近、というかこのところ爆笑問題の太田が番組で色々と語ることが多い。それも今の世相から見ると管理人なんかは「危なくないのか!?」と思ってしまうような内容だったりする。つまるところ、社会が不寛容なので抗議(ならまだしも)や嫌がらせなんかがあるんじゃないか、と思うのだ。
 そんな太田が中沢新一と対談したのがこの『憲法九条を世界遺産に』だ。


 なんで今回これをアタマに持ってきたかと言えば、ハッキリ言えば話題性があったから、である。今でも大型書店に行くと、売れ筋なのか平積みされてるので、下火になりつつあるとはいえ、『美しい国へ』に対抗するかたちで当面は置かれるだろうと思う。
 とはいえ、なぜ中沢新一なのか?という疑問はあった。最近はすっかりナリを潜めた観があったけれど、それでも現代思想を多少はかじれば中沢新一のネームバリューは今なお健在である。そんな中沢と太田は僕から見れば接点がなさそうなのだけれど、どうやら二人は知り合い同士らしい。今回の経緯について、巻頭で中沢はこう述べている。


 ところがこのところ、テレビの中の太田君が、真っ正面から日本人の直面している深刻な諸問題を取り上げて、それにラジカルな論評を加えている姿を、よく見かけるようになった。ここまでテレビでやって大丈夫なのかな、お笑いの立場でこんなことを発言すると、またぞろ面倒なことを言い出したがっている人たちの格好の標的になっちゃうぞ、とときどき心配にもなった。しかしそれ以上に、いま僕たちがそれを言葉に出して語らなければならないはずなのに、臆病のためか怠惰なためか声高に語るのを避けている重大な事柄を、彼が必死になって語ろうとしている姿に、僕は深く心を打たれたのである。


 そうした経緯で出来た本なので、基本的には憲法九条、なかんずく平和に関する諸問題への太田の疑問や考えあぐねているところを、中沢が共に考えてみる、と言うようなスタンスだ。もちろん、それは太田の質問に関する中沢の「一問一答式」なスタイルではない。あくまでも太田の鋭い感性に中沢は懐深く、その太田が抉ろうとしている「モノ」を共に取り出そうとするのである。使い古された言葉だけれど、いわゆる「産婆術」というものに近い(ただし、中沢の側にソクラテスのように意図的に誘導する意図はないようだ)。
 芸人である太田と文化人類学者(ひと頃のニュー・アカデミズムの旗手)である中沢との対談だから、いわゆる法学や政治学からのアプローチではない。もっと文学的、文化人類学的、更に言えば感性的な方向に話は進んでいく。こういう話しの立て方は恐らく太田だからこそ、といえるだろう(ビートたけしにも共通しているとも言えるのだけど)。


 本書の内容は宮沢賢治に潜む理想と狂気の側面(本書では狂気という表現は使わないのだけど)から戦後の宮沢賢治の捉え方と、同時に九条に対する捉え方がある意味でパラレル(並行)になっている、ことへの考察、九条は言わば世界史的に見ても「突然変異」のようなものだ、といった見方について対談している。そして、いわば憲法としては奇態である九条はそれゆえに世界遺産になりうると考える。むしろ現実と理想と間の緊張関係を持つことが必要だし、その上で理想に向かっていく努力が必要だとも言う。
 ただし、太田にしても中沢にしても、その九条を守っていくことは非常に覚悟がいることだともしている。その点で、かつてのような単純な九条万能論的な方向へも収斂していない。


 なので法学政治学的な考察ばかりしてしまう管理人には物足りなさを覚える一方、視点としては面白く、同時にこうしたアプローチとどっちがより共感を得るのだろうか、という視点でも考えさせられた。憲法九条を論じたモノの多くはどうも都会のインテリに向かって書かれているような気がする。論理的にどうこう考える、というのは非常に重要なのだけれど、じゃあ社会科学についての勉強をしてこなかった人たちに対して、そうしたやり方がどこまで有効だったか、と問えば非常に疑問だ。
 そうした中、本書の持つ文化人類的な視点、感覚的視点(本来、国家観に「美的感覚」を持ち出すのは三島由紀夫だったり小林秀雄らの側だと思うのだが)からの切り込みは、より広範な人たちへ九条の持つ意味について訴えるには良いのかもしれない。