あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

M-1グランプリとチャイコフスキー・コンクール


 さて、日曜の18:30から21時近くまでやったM-1グランプリ
 テレビ見た人ならご承知ですが…。

 あれで優勝するのと、チャイコフスキー・コンクールで優勝するのって似てるなぁ…と漠然と思った。

 お笑いもクラシックも、コンクールで優勝すればマスコミが注目されるけど、その世界で「その後も第一線で活躍し続ける」という能力は、多分同じ能力ではないのだろう。
まー、お笑いで言えば、昨今のテレビ番組での笑いは「素人の」笑い、ナンシー関に言わせれば「笑わせてる」のではなく「笑われている」笑いも含まれてしまう、なんでもありみたいなところがある。
 しかも、ネタ見せではなくて、バラエティーが主流だし。(まぁ、ネタを作り上げるタイプにしてみたら毎週ネタ見せ番組をやられたら、ネタが尽きるのは当然だろう…だから演芸ホールで限られた観客だけを相手に漫才を見せる、というのも賢い選択だとは思う)


 そういうあたりを考えると、どちらもコンクールで優勝した後こそが真価を問われるんだろうと思う。
 例えば、第1回チャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で優勝した、ヴァン・クライバーンは当初は持て囃されたけれど、その後、忘れ去られ「過去の人」になった。確かに優勝する能力があったのだろうが、その後、スターとして自身の芸術性を高めることなく、周囲の言われるがまま、全米ツアーなどをやって、文字通り大衆による「消費」をされていった結果、クライバーン個人の芸術性までも「消費され尽くされて」しまったのだ。
 逆に言えば、M-1とかコンクールとかに出るコトというのはスポットライトに未だ当たってない芸人だったり演奏家が目指せばいいものであって、コンクールにそれ以上の意味を求めてはいけないと思う。いわば、手段としてのM-1でありコンクールである。

 まー、彼らにしてみれば「優勝したい」っていう思いがあるのだろうな。だけど、芸人としてあるいは音楽家として実力が備わってしまえば(=その地位が確立されてしまえば)その後になってはコンクールに出る意味が無いんじゃないか。
 だからキングコングなんて出なくても良いだろう、とか。
 
 (全く余談だけど、管理人自身は「個人的に好き」というのと「大衆ウケしている」というのと「ホントに優れている」という次元が相互に重なりながらもやはり独立して存在すると思う。
 客観的にいえないけれど、いわゆる「目利き」がそこに価値を見いだす「価値」というのもあるんじゃないか。それが評論家の役割になると思う。)

 まー、笑えたから良いし、新たな人材リクルート機能としてのコンクールの役割はあるわけで、ちゃんと機能している限りは害にならないから良いんだろう、なんて。
 そんなことを思いつつ、ファイナリストのコンビでオールナイトニッポンとか持ってくれないかなぁ…なんて思ったりした。 

カントの人間学 (講談社現代新書)

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