あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

東京シティ・フィル 第223回定期演奏会

曲目 マーラー / 交響曲 第9番 ニ長調
指揮: 飯守 泰次郎


 日本におけるマーラー演奏の草分けとなった指揮者の山田一雄マーラーについて次のように表現した。

 「彼(=マーラー)の曲は、豊穣な響きの中に、純真と執拗、平凡と独創、悪魔的と天国的、幼心と巨人的なものなど、あらゆるものが、豪華なつづれ織りのように交錯している。そして、それらが類なき真剣さで包括された大きな宇宙をもっているから、マーラーという山路に迷い込んだが最後、人々はなかなかどうして逃げ切れない。豊かな音色たちの交錯と人間表明の深い呼吸―。そこにはまた、近代人の知性と矛盾、苦悩と弱さをもさらけ出されている。ここに現代の人々は、マーラーが生きた19世紀末のヨーロッパにおける「精神的絶望感」と、今また今世紀末の「核による悪魔の終末的光景」をクロスオーバーさせて、何を感じとるのだろうか」(山田一雄『一音百態』p.24)

 ヨーロッパ近代そのものが、まさに終末観にとらわれていたその時期に、マーラーは9番を書きあげた。ちなみにシュペングラーが『西洋の没落』を世に著したのは、交響曲第9番完成からおよそ10年経った1918年。
 文明社会の矛盾と錯綜に、作曲者自身の自己分裂と錯綜とか重なり合うように、この曲は生まれたのであるが、曲そのものの内容もまさに「その通りな」曲へと完成されている。
 ここには皮肉とともに祈りの精神とが綯い交ぜとなり、この曲を聴くことによって現代人は飯守自身がプレトークで解説したように「現代人への力にも警告にも成りうる」一種の危うさを秘めているのだ。

 さて、そうした一般的にコンセンサスを得るであろうマーラー解釈にこの9番を位置づけた飯守であるが、マーラーの楽譜にあるようなカリカチュア的な要素は成りを潜め、内面的なアプローチに傾斜した演奏だったと思う。だから、インバルのようなこの曲にあるデモーニッシュなグロテスクさは後退して、代わりに、情緒のダイナミズムとでもいうような、会場全体がうねりを上げるような、そういう演奏だった。
 今回も思うことなんだけれど、飯守の指揮自体は、オケのタテの線を厳密に合わせようとするよりは、そうした曲自体の内面的・外面的ダイナミズムをハッキリ描くことに注意が払われている様な気がする。管理人は、タテの線が揃わなくても気にならない方なので、9番の世界観にのめり込んで行けたが、ここで躓いたヒトはいるかもしれない。
 全体で見ると、1楽章は良く練習されて、乱れもなかったけれど、後半に従うにつれて、オケはアンサンブルの精密さよりも感情のうねりや高まりが前面に出てくる展開だった。

 オペラシティというホールも、聴衆を含めた一体感を作るのにはプラスに作用していて、4楽章のコーダ、静謐な空間も共有され、飯守がタクトを下ろしたあともしばしの沈黙が支配する、聴衆も一体となってこの演奏会を作ったと言えるだろう。このところ、楽章間の拍手やフライングブラボーに辟易していたから、久しぶりにトータルでの良い演奏会に出会えて良かった。

マーラー:交響曲第9番

マーラー:交響曲第9番