あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

『サブカル・ニッポンの新自由主義 ─既得権批判が若者を追い込む』を読む

生き方のルールが変わった。個人の「能力」が評価軸の中心となった。だがそれは激しい競争へと私たちを駆り立て、マッチョであることを要求する。こうした新自由主義のモードが「サブカル社会ニッポン」を覆い、さまざまな「ねじれ」を生んでいる。ネット先進国たる韓国、米国の事例をも取り上げ、新自由主義がいかなるルーツを持っているのか、これに対抗しうる拠点はないのか、サブカルの可能性を見据えつつ、深く鋭く迫る。
中流の奪い合い」で右往左往する日本
http://www.chikumashobo.co.jp/pr_chikuma/0811/081103.jsp

 鈴木は1976年生まれということだから、若い。さらに余計なことを付け加えると、宮台真司門下。管理人は今回もタイトル通り「サブカル・ニッポン」とサブカルを切り口に据えるのか、と思ったら、それ程でもなく、最近の新自由主義を取り巻く言説をトレースしつつうまく整理していて、いい意味での肩すかしを食らった。
 繰り返しになるが1976年生まれの著者は就職氷河期を経験したいわゆる「ロスジェネ」世代である。そして、新自由主義的な日本型社会への批判ないしは憧憬というのは、大雑把に言えばロスジェネ世代による団塊の世代への既得権批判なのである。

 したがって、1章では団塊の世代に象徴される「日本的な社会」(つまり終身雇用や年功序列)への新自由主義的な批判を軸にしながら、それをとりまくいわゆる「格差社会論」を多く紹介している。ただ、「新自由主義を政治体制や社会的なイデオロギーとしてのみならず、私たちが共有した価値判断のモードとして分析するという立場」とするその分析は社会学者の著者ならではの印象を受けるが、「じゃあ、そもそも新自由主義って何よ」という問への答えとしては弱い。
 だから、というには強引すぎるかもしれないが、新自由主義新保守主義、リベラル、社会民主主義といった諸概念を著者が相応に定義して、深くはないにしろそれぞれの思想的特徴を押さえておかなければ、新自由主義と定義した考えが、実は新保守主義だったと言うことも十分にあり得る話なのである。それは「新」自由主義たるゆえんを考えるときにアメリカ社会における「保守とリベラル」の関係を考慮に入れておかねばならないのと同様だろう。
 なぜ、そうした書き方をしたかと言えば、対立軸をどう定めるのか、という前提の段階で躓きかねないからだ。新自由主義は政治的・経済的な特徴のある思想であるが、格差社会論はもっぱら経済政策上の問題になりやすい。政治的にはリベラルでなくても、格差社会論に大いに賛同し、現在の経済政策を批判するというのは大いにあり得る話である。
 しかし、新自由主義を総体として批判を加えようとすれば、つまりデモクラシーの徹底という、いわば政治上の左右の対立と、統制か規制緩和といった経済上の左右の対立というのがゴッチャになってしまう。かつて小泉改革を支持したロスジェネ世代が、格差社会論の登場によって、左にシフトしたと見る向きがあるモノのそれは早計ではないか?と言う気がするのだ。
 もっとも、政治的左派が格差社会論によって、また、安倍から福田へと政権が移ったことによって「相応に」勢いを取り戻したのは確かである。しかし、国籍法改正に対する懐疑であったり、田母神発言への賛同であったり、政治的に世論が左にシフトしていると考えることは難しい。(もっとも、それなりに政治的左派へシフトしているならば次期総選挙で社民党共産党比例区を中心にどれだけ議席を獲得できるか、ということで、おおよそ見当が付くだろう。ただ、管理人の予想だと、両党の獲得議席は前回選挙と同程度か、変動があっても誤差の範囲内ではないか?)
 そのあたりについて著者は理解しているようで、「若者たちは『右傾化』といった現象とは全く別の意味で『保守化』している」として、ロスジェネ世代の改革支持というのは、団塊たちの既得権を自分たちに寄こせという、パイのぶんどり合戦にすぎないということを示唆している。従って「かつての日本に存在していた(と認識されている)既得権的な立場を、自分にもよこせ、と言っているのだ。そして現実にはそれが不可能であるからこそ、『より一層の改革』が次善の策として要求されているわけだ」と述べるのである。

 では、なぜそうした既成権力に対する批判的言説が生まれるのであろうか。そこで著者は「新自由主義的なもののルーツには、そうした対抗文化による社会批判が存在していた」と考える。具体的には1968年に象徴されるヒッピー(左翼的発想)とハッカー(右翼的発想)とのクロススポットたるカリフォルニアンイデオロギーがまさにそれである。
 いずれの発想にも反権威主義的・自由の尊重というのがあるが、そこへヒッピーの人間の本来性の回復やコミュニティ志向・脱資本主義的なモノと、ハッカーの個人の実力主義やフロンティア志向・資本主義の肯定が組み合わさったモノだ。だから、自分たち若者がパッとしたい理由として、既得権にあぐらをかいている(と思われる)団塊世代を糾弾し、さらなる市場原理を徹底したフェアな環境を作るという、一見すると倒錯したような主張を行うのである。

 こうした言説は新自由主義的な主張と結びつくが、自由主義の一つの支流である新自由主義自由主義同様に問題を抱える(欠点というと大げさすぎる。要するに自由主義のコインの裏面に当たる部分だ)。それは「自身の幸せないしは不幸の基準は自身の内面にしか作ることは出来ない」というものである。なるほど、確かに宗教の権威が強かった中世までは、幸福は外在的に、外部から規定されるモノであった。おのおのが宗教的に合致した生活を送れば(=信仰が篤ければ)それだけ幸福になれると信じることが出来たし、また、社会それ自体もそうであると考えられていたのである。しかし、近代の成立以降、人間性の回復の名の下に、さらには近代合理主義の名の下に各人はそれぞれ自身の内面に照らし合わせ、自らの行動指針を決めなければならない(著者も引用しているがギデンズの「再帰性」参照)。それは幸・不幸についても同様である。
 従って、自由主義新自由主義の系譜では、人々は好む好まざるにかかわらず、常に競争関係の世界に身を投じざるを得なくなるのだ。

 自由主義新自由主義による競争社会において人々が直面せざるを得ない自己啓発ならびに能動的アイデンティティ承認の陥穽から人々の意識を客体化するにはどうしたらいいのか。一つの路として「分け合いの共同体」の可能性について著者は模索している。こうした発想はいわゆる「親密圏」(親密圏はそのヒト自身でしか、抜けた穴は埋めることが出来ないような人間関係のコミュニティ)における議論と多分にオーバーラップしてくると思うが、著者の特異な点としては、その共同体を成り立たせるためにオンラインコミュニケーションの可能性や、「ジモト」などが挙げられていることだろうか。

 ここまで読んで、著者も最終的に落ち着くところが、管理人の思っていることと大して遠くない距離にあることにやや拍子抜けしてしまった。もちろん悪い意味ではないのだけれど、もうちょっと目の覚めるような方向性があるのかなぁ…と期待していたが、案外普通なのね、という無難なところに落ち着いていたし。もっとも、人間が生物である以上、そのアナログなところから抜けきることは出来ないし、管理人も含め、そうしたアナログな関係を愚直なまでに追い求めることは必要なのだろうとも思う。
 そんな読後感。