あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

クビになっても気づかない?

「本当に働こうという人か」=派遣村で発言−坂本総務大臣政務官
 (時事通信 1月6日)
 坂本哲志総務大臣政務官は5日、総務省の仕事始め式で、仕事や住居を失った労働者らが宿泊していた日比谷公園(東京都千代田区)の「年越し派遣村」について、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのかという気もした」と述べた。

 かつてアメリカでも起こった「福祉の女王」批判と同じ文脈だな、ということに驚き、でも、この手の批判は世界共通なんだろうなとも、納得してしまったり。

 このヒト、世襲ではないんだけど、祖父さまもオヤジも特定郵便局長で自身は新聞記者→地方議会議員→国会議員という経歴。ただし、郵政民営化法に反対していた経緯もあって、一度は落選している。

 だったら、次の日から「ただの人」になる辛さとか分かるはずなのにねぇ。「派遣切り」された人々の境遇を慮っても良いと思うんだけど。ただ、自分は国会議員に返り咲いたから、こんな発言が飛び出すんだろうか?
 ちょっと皮肉めいたことを言えば、自分だって、同じ選挙区(熊本三区)の松岡利勝(元・農相)が自殺しなければ補欠選挙で当選できなかったくせに。なんて思ったりもする。

 ロールズ『正義論』によると、今、自分が立っているポジションはすべて自分の努力によって築いてきたワケではない。出身地(地方か都市か)や、家庭環境(富裕層か貧困層か)、時代(バブルの時代か不況の最中か)、人々の巡り合わせetc.という自分の努力ではどうにもならない偶然とか運とかいうような要素も絡んできている。
 だから、僕らは自分以外の社会すべての人々が一定程度の福祉が享受できるようには(ある意味において)還元しなければならないのである。

 もっとも、この手の議論を好んでする保守系のヒトは基本的に理性や設計主義的なモノへの懐疑って言うのはある。そして、道徳を称揚する。
 かつて「イギリス病」と呼ばれた経済停滞のイギリスを改革したマーガレット・サッチャーは「ヴィクトリア時代の美徳」(威儀や節度の洗練)への強い信念があったと言われている。
 しかし、「慎ましやかに、そして勤勉に」という労働観は果たしてどこまで自明なものなのだろうか。ウェーバーによれば、そうした労働観はまさに「近代に生み出された労働観」であるといえる(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。もっとも、一度完成されてしまった資本主義のシステムには、節欲精神はもう必要なく、あとは自動的に制度によって、人々が引き摺られていってしまうというのがウェーバーの指摘だが…。日本では明治の富国強兵政策の一環でこのような労働観or道徳観を規律化していったと言えると思う。(cf.フーコー『監獄の誕生』)

 大体、会社クビにならなかったら、派遣村には行かないハズだろう。
 新卒採用が未だに主流の雇用慣行において、「派遣切り」された労働者が、慢性的な人手不足な職場へつくことが出来るか?といえば、残念ながらNOなのが現状だ。
昨日まで建設作業員をしていました、っていう中年のオッサンが明日からサイゼリヤの店員になれるのか?といえば、それは無理というものだろう(サイゼの店員じゃなくてSEとかなら尚更)。各都道府県ごとにある職業訓練校でどれだけのことができるのか、心許ない。

 確かに、山谷地区に集まっていた労働者などは景気の良いときでさえも、昔から存在してきた。そして、管理人個人としては、社会において、そういう人々が一定程度存在することはやむを得ないと思う(会社人間のように、人格を会社に適合出来るヒトがいれば、当然その反対も出てくるのは人間でいる以上当然だろうと思うので)。
 問題は、それまで不安定な雇用形態ながらも働いていた人たちが、この不景気によって急激にあぶれてきている、ということであって、そういう状況を作った責任の一端は政権与党であるのに、自らの不作為を顧みることもなく、労働者個人の人間性に原因があるかのように発言する政治家は許しちゃいけないと個人的には思ったりする。

 ここまで書いて、翌日発言の撤回だって。
 だったら、言わなきゃ良いのに。ただ、これは別の側面で問題があるだろうな。役職に就いている政治家の発言があまりにも軽すぎる。発言の重みも何もあったモンじゃない。
 この政治家の持つ言葉の軽さ、というのはどういう帰結をもたらすのだろうか。そのうち、どんな政治家も国民へ届くメッセージを発せられないというような状況を作るんじゃないか?なんて、結構悲観的な予想をしてしまったり。