あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

東のエデン 劇場版? The King of Eden

東のエデン 劇場版」をシネリーブル池袋にて鑑賞する。

 今年一年を振り返ると、何だかんだで、「だいたい」月1本の映画を映画館で観る、という目標は達成できた。もっとも、それと同時に掲げた、芝居と美術館を最低ワンシーズン1回は実施できなかったが…。

 ああ、仕事を片付けるのをもっと早くしないからダメなんだよなぁ。せっかくの休みもメリハリ付けずにだらしなく過ごしているから有意義に使えずにモッタイナイ事をしている。


 さて、「東のエデン 劇場版」(以下、劇場版とする)のハナシ。

 知らない人のために予め断っておくが、この劇場版、フジテレビ系列の深夜アニメ枠「ノイタイナ」で放送していた「東のエデン」の続編である。
 それも、本当の意味での「続編」で、今回、この映画だけを観てもまるで分からない。アニメを観ていることが前提になって全ての話が進んでいく。その意味で、猛烈に映画を観る人間を選ぶ映画であると思う。そして、「劇場版1」というように、この映画だけでは完結しない。ホントにハナシが気になるところで「次回に続く」なのである。

 とはいえ、約90分の映画だから、あっと言う間に観られるだろう。映画としては短いにも関わらず、見応えがあったのは、オープニングからストーリーはトップギアで飛ばしているからだと思う。つまり、あたかも先週にアニメ版が終わって、この劇場版です、というような作られ方だ。管理人の賞味期限が切れかかっている脳ミソでは、ハナシの細かいところを忘れかけていたので、観ながらにして「あれ、そうだったっけか?」的な事を思いながら観ていた。


 今回は、再び記憶を無くした滝沢朗(主人公)がニューヨークで咲(ヒロイン)に見つけられ、日本へ戻ろうと飛行機に乗って終了。滝沢自身がゼロからの出発になるが、滝沢の周りの世界は、彼なしでドンドンその後も進んでしまっている。平澤ら「東のエデン」スタッフと、ノブレス携帯をもったセレソンらが再び動き出す、そして滝沢と、3つの関係が一つの見どころだろう。
 もう一つの関係は、滝沢と咲との関係なのだが、それは観て確かめると良いと思う。


 個人的などーしようもない感想からすれば、セリフでも登場する「上がりを決め込んだオッサン」とニート(とその世代)の関係はどうなのか、というトコロだろうか。

 「東のエデン」システムを会社として運営していくようになる平澤たちは、否応なしに彼らの言う「オッサン」のシステムに巻き込まれていく。そこで、未だにニート気分の抜けない「元ニート」たちに向かって、かつての自分たちの持っていた「オッサン」世代と同じロジックで、批判的に見てしまう。しかし、そうした「オッサン」世代のロジックこそが、本来の彼らのスタート地点であり、そこに一種のアンビバレントな感情が存在するといえるだろう。

 そんなところなんだが、実は「上がりを決め込んだオッサン」のロジックというのは、ある種の「プロテスタンティズム的な倫理観」であって、「マルキシズム的な労働観」の発露だったのではないかなぁ…なんて思わなくもない。
 つまるところ、「勤労は美徳である」という価値観は、果たして本当に自明なのか、ニート的なテキトーにやりたくないことはやらない労働というのも、等価値として存在するのではないか、なんて思ったりもする。(ここに欠けているのはヘーゲル的な「欲望の体系」に関する思考か)

 ま、いずれにせよ、来春にこの話の結末は明らかになるのだろう。