あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

東京都交響楽団 第725回 定期演奏会Aシリーズ

東京都交響楽団 第725回 定期演奏会Aシリーズ
2011年11月11日(金) 19:00開演(18:20開場) 東京文化会館


指揮:ヴォルフガング・ボージチ
ピアノ:フレディ・ケンプ

曲目
モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 イ長調
R. シュトラウス家庭交響曲

 
朝から小雨が降り、12月並みの寒さになったこの日は都響定期演奏会のため、上野まで出かけた。もうすっかり日が暮れるのが早くなり、上野公園はすっかり秋めいている。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第23番は個人的に凄く好きな曲だ。そして、ラローチャの最後の来日コンサートでも聴いた思い出深い曲である。あの時に聴くことが出来た、一音一音を慈しむように弾いた演奏はあの時以来、聴けたことがない。
 そんな事を思いながらも、舞台にはフレディ・ケンプの登場である。コンサートのチラシに良く名前が載るのを見ているのだけれど、実演を聴くのはコレが初めてだ。長身でピアノを弾くには恵まれた体躯だが、母親は日本人なのだという。へぇ…。

 曲のアタマから木管は堅い。もっと柔らかく、そしてそこはかとなく哀しくあって欲しい(←個人的な欲望)。それでいうと、今回の演奏は小林秀雄的方向とは反対だった。もちろん、オケではなくてピアノが、なのだけれど。
 ハスキル内田光子に聴くような聴いていて涙が出そうになるような演奏とはちがって、まだ青年モーツアルトがピアノの上で自由にとんだり跳ねたりしているような演奏なのだ。確かにこの古典派の作曲家には、伝統的なソナタ形式でありながら、革新性が、それも普通聴いても分からないようなカタチで組み込まれている。
 岡田暁生モーツアルトの音楽をアタマのおかしい音楽だ。と、この作曲家のデモーニッシュな側面をそうした言い方で説明していたけれど、今回のケンプの演奏を聴くと、確かにそうなのだろう、と思わせる。
 突然、ギアが入るような、裂け目が生まれるような瞬間が所々にあるのだ。

 アンコールはショパンエチュードより、別れの曲。

 後半はR.シュトラウス家庭交響曲」だ。
 大編成の曲だから舞台にオケのメンバーが勢揃いするその光景は壮観だ。もっとも、R.シュトラウスの曲は俗っぽさの極致とでもいおうか、白々しいまでの絢爛豪華さが特徴であるから、作曲家の狙い通りではあるのだろうが。
 この曲、ややもすると輪郭のハッキリしないボヤケた印象を与えてしまうのだが、ボージチはメリハリよくまとめ上げていた。さすが、長年、歌劇場で鍛えてきただけのことがある「たたき上げのカペルマイスター」だ。
 協奏曲の時は硬いなーと思っていたオーボエクラリネットの掛け合いは特に素晴らしく、弦もただ美しい音色だけでなく、しなやかな力強さを感じさせた。
 オペラ指揮者の経験だからか、次々に旋律を弾く楽器が次々と交代していく、つまりは各楽器の「魅せ場」を作るのがボージチはこの上なく上手いのである。そして、フレーズをのびのび歌わせていく、というよりもドラマチックにこの曲を仕立て上げる。「英雄の生涯」もそうだけれど、シュトラウス管弦楽はそうした方がずっと楽しい。(例外はスケール雄大に弾いてくれるアルプス交響曲や、枯淡の極致にあるような晩年のメタモルフォーゼンとかだろう)。
 金管は極力MAXに吹かせず、ここ一番で吹かせていたのも印象深い。ブヨブヨと肥大化した演奏ばかりが多いこの曲の演奏の中では、図抜けて良かった。