あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

東京都交響楽団 第733回 定期演奏会

会場:東京文化会館

指揮:エリアフ・インバル
ピアノ:辻井伸行
ショパン:ピアノ協奏曲第1番 ホ短調
ショスタコーヴィチ交響曲第10番 ホ短調

 3月からのインバル月間。インバルもいい歳だけれど頑張っている。
 最近、デプリーストはすっかりご無沙汰なんだけれど、どうなんだろうか? 年に1度くらいは定期を振って欲しいなぁ。イワン雷帝メサイヤを聞いたときが懐かしい。インバルはマーラーショスタコーヴィチは指揮してくれるけれど、イワン雷帝はやらないだろうから、そういう方向の需要を開拓してくれる指揮者として貴重だと思うんだが。
 ともあれ、今度、都響に感想を送ってみよう。
 
 さて、前半は、メディアの持ち上げられ方から「話題先行か?」という疑念を拭えず、いままで聴かなかった辻井伸行の実演を聴く。曲目はショパン・ピアノ協奏曲第1番。全盲であることが逆にオケとのシンクロを生み、極限の「アンサンブル」を生み出していた。アンサンブルは指揮棒を見るに非ず、で、オケ、指揮者、ピアニストがまさに心を通わせ「協奏」することで成り立つのだ。ということを教えられるような演奏だった。
 いつもはグイグイと引っ張るインバルも今回は調和を第一に意識した様子。だから、というのは言い過ぎかもしれないが、いつもの時に過激なインバル節はあまりなく、中庸な印象を受けた。けれど、それがちっとも物足りなさを感じさせはしない。完全に協奏曲として成功しているからである。

 恐らく、辻井の目が見えていたら、ヴァン・クライバーンで優勝することはなかったのだろう。それは、あの優勝が全盲というハンデにも拘わらずと言うお涙頂戴的な意味で言うのではない。 辻井より華やかに、また、より精確に弾くピアニストはゴマンといるからだ。しかし、辻井は見えない分を作曲家への想いと対話によって、自分のショパン像を作り上げることに成功した。探し当てたと言っても過言ではないだろう。これは凄いことだ。
 五体満足で、ショパンを弾いても、モーツァルトを弾いても、みんな同じに弾いてしまって何が何だか分からないピアニストも多い中、きちんと「私のショパン」を弾いて説得力あるものにしている。

 インバルのショスタコ10番は先月聴いた4番ほどの完成度ではなかったように思う。集中力と熱意をショパンで使ってしまった、というべきか。しかし、コレまた実演ではなかなか聴けない秀演だった。特に弦のしなやかさと磨かれたアンサンブルは文化会館の音響も相俟って鳥肌モノ。
 そういった考えで言えば、今回の10番はスゴイ演奏ということになる。もっとも、前回の4番は演奏のベクトルが凝縮へと向かっていたが、今回は、開放的な側面があった。緊張感はもちろん壮絶であったのだが、どこか大らかさも感じたのは事実である。ともあれ、実演でこれだけ聴けたのはラッキーだった。