あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

加藤典洋『敗戦後論』を読む

敗戦後論 (ちくま文庫)

敗戦後論 (ちくま文庫)

 文芸評論家で早大教授の加藤による戦後、半世紀経った時点での「敗戦後」論である。管理人が読んだのは単行本ではなくてこっちに載っているちくま文庫版のほうだ。本書はその後に哲学者・高橋哲哉との間で論争以後の、さらに考察を深めた「戦後後論」や「語り口の問題」などが併せて収録されている。
 加藤の議論に関しては次のような批判がある。アジア・太平洋戦争でのすべての犠牲者を哀悼するために、まず第一に日本人犠牲者を哀悼するという「行為主体」を立ち上げてからではないと何も始まらないという加藤の議論は、高橋ら、アジア・太平洋地域での犠牲者を最初に追悼すべきと言う立場からは、それこそが「大東亜戦争肯定論」に通じてしまう思考であると批判される。
 加藤にせよ高橋にせよ、両者ともにあの戦争を侵略戦争であるという事実認識に違いはないので、両者の違いは「反省する主体」の立ち上げ方、ならびに「自己意識と他者意識」における文学者と哲学者の違いのように個人的には思える。ヴィトゲンシュタイン的な他者の存在が自己の存在そのものを証明するというような、哲学の一つの到達点(立場)からすれば、加藤のそれはいかにも、私的なものの中に入り込みすぎているのだろう。
 だが、加藤からすれば、人間そんなにスッキリと割り切れるものなのだろうか?という疑問は常にあるのだろう。それは文芸評論という作家本人すら気づかなかったの内面奥底まで入っていく,アプローチの仕方からすれば分からないこともない。

 だから、昨今の論壇にある「そんな事実そのものが存在しない」なる暴論は採らないのだが、自己の意識を起点とするその思考は、戦争という「他者」の存在を不可欠とする「政治」行為にとって、自己に帰りすぎるきらいがあるそう考えるのは私自身が政治学プロパーだったというのも関係しているのだろう。むしろ、ここで「ねじれの問題」として顕わになる加藤の問題意識こそが、理屈では分かっていながら、なぜ日本の戦後問題が尾を引いているか、という現在まで引き摺っているこの問題を考察する思考の補助線になるだろう。
 また、太宰や大岡、アレントの著作を独特に解釈することでこれらの問題を解きほぐす手法はまさに社会科学とは全く異なる文学の手法である。それでいえば、社会科学プロパーから提起された戦後責任の議論にたいして、本書の占める位置はきわめてユニークであるとさえ思われる。個人的には「戦後」の問題を考えるに際して、「政治」が起こす「戦争」を考える場合、テクストに徹底的に拘るのは重要だが、「語り口」を問題にすると(その意義は十分認めるけれど)議論としてはそこで終了してしまうかもしれない。このあたりは「善」と「正義」の問題としてロールズが直面したアポリア同様の難しさがある。ともあれ、非常に刺激的な著作である。