あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

杉田敦『境界線の政治学』

境界線の政治学

境界線の政治学

内容(「BOOK」データベースより)
「9・11」と、急激なグローバリゼーションの進行は、これまでの政治観の中心であった境界線にもとづく思考を無効にした。現在、われわれが直面している問題の本質とは何か。ポレミックなトピックを通して、幻想にもとづく同質性を単位にした政治秩序がもつ問題と限界を明らかにし、主権の絶対性と、境界線内部の最適化を志向する伝統的な政治概念をラディカルに更新する理論的跳躍。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
杉田 敦
1959年生まれ。東京大学法学部卒。専攻は、政治理論。法政大学法学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 この本は著者がさまざまな媒体で発表したいくつかの論文を収めた「アンソロジー」であるので、第一章から順に議論を展開するといった種類のモノではない。
 しかしながら、ここに収められた一連の論文に共通する視点は「境界線」の存在であり、その点から言えば、著者の政治社会における境界線の存在とそれに対して私たちはいかに向き合うことができるのか、といった問いかけへの思考集成とも言えるだろう。
 著者自身はミッシェル・フーコーの研究者であると管理人自身は認識しているため、その議論は従来の政治学の土壌の上に「フーコー的な」権力観を加味し、再構成したモノであると思っている。そのため、ポストモダン的な政治学であるとも言える。ポストモダンによるモダンへの批判や懐疑は、確かに現代の混迷する社会を解明する一つの切り口を提供しているという点において非常に有効であろう。
 一方で、「大きな物語」(≒最終的に目指すべきゴール)の終焉を説くため、その結論は「じゃあ、一体どーすればいいの?」といった物足りなさが残るのもまた事実である。

 既出になるが本書に収められた一連の論文を貫くテーマは「境界線」であるが、ここで「境界線」についての説明をしよう。
 我々はヒトを意識的・無意識的に「境界線」を作って、相手を識別する。もっとも根源的な境界線は「私と私以外」だろうし、そこから「仲間とそれ以外」(「友と敵」ともいえる)、「日本人と外国人」、さらには「男と女」などがすぐに思いつくだろう。「境界線を引く」つまり、そこに「差異を見出す」ことで対象を認識するのだ。
 そうした「認識論」を踏まえて、著者の主張は境界線の存在は否定できないが、「境界線を引く」という行為はその場その時の状況による恣意性や偶然性に大きく左右されており、その境界線そのものを絶対視することは妥当なのか(つまり妥当ではない)、というものだ。
 さらに、境界線がそのような存在である以上、その境界線は新たに引き直されることもあるし、境界線は唯一絶対でもなく複数の境界線が同時に存在する。だとすれば、境界線の前提を自覚した上で、その境界線が妥当なモノなのか、と常に問い続けることは必要であろう。今日繰り返されるさまざまな対立や紛争は境界線の向こう側にいるそ相手との「差異性」ばかりを強調するものである。そうではなくて、共通性を見出すことで新たに境界線は引き直され、また既存の境界線の垣根は低くなりうるのである。

(なお、各論文を個別に見た場合、リベラル−コミュニタリアン論争のその後の展開やマイケル・ウォルツァー聖戦論批判など、そこには最近のアングロ・サクソン系政治理論の再検討が展開されている)

 このように本書で著者は全人類が幸せになるユートピアを構想するようなものではない。しかし、9.11以降の国際政治、また、それとパラレルに進行する日本国内における「友と敵」的な政治状況に対する批判として一読に値する。

オススメ度→★★★★★