あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

コンプレックスの裏返し?ジェンフリ・バトン・etc.

 あいかわらずのこんな記事。
 ちなみに東京新聞の6日の記事です。

東京都調布市男女共同参画を推進する拠点施設「男女共同参画推進センター」が昨年、ジェンダーフリーの用語が記載された市の広報紙を、図書コーナーから一時撤去していたことが六日、分かった。一部団体などから抗議を受けたためという。広報紙は、市議会でジェンダーフリー関係の図書の撤去の有無を問う質問が出た直後に、書架に戻されていた。

 この広報紙は「あたらしい風」。男女共同参画を推進するため、市が公募した市民が中心となって、一九九〇年から年一回発行している。

 撤去されたのは、二〇〇二年に発行されたもので、ジェンダーへの正しい理解を深める目的で作られた。ジェンダーフリーの理解度を測ったり、偏見や誤解を生む例を解説したりしている。

 同市は男女共同参画条例制定に向けた検討を進めているが、昨年三月から、男女共同参画推進担当課に電子メールや電話で「ジェンダーフリー」の用語の扱いについて、否定的な意見が寄せられるようになった。反対する団体の会員が「ジェンダーフリーが記載された本はすべて外せ」と、同センターの窓口にどなりこんできたケースもあったという。

 このため同課は同年八月初め、センターの図書コーナーの雑誌と資料を調査。ジェンダーフリーの用語を明記していた市の広報紙を書架から外して倉庫にしまった。

 翌月の市議会では、ジェンダーフリー関連の図書撤去の有無を問う質問が出たが、市側は「書籍を撤去した事実はない」と答弁していた。

 しかし、内部で「広報紙でも撤去するのはまずいのでは」との意見が出て、九月末になって書架に戻したという。

 担当課の平本正之課長は「広報紙の内容は問題ないと思ったが、取り扱いについて内閣府などの見解が出されていたことから慎重になりすぎた」と弁明している。

 ジェンダーフリーの用語をめぐっては、内閣府が一昨年四月、「新たに地方公共団体で条例等を制定する場合には使わないほうがいい。差別をなくすという意味で、定義を明らかにして使用しているものについては問題ない」との見解を示した。今年一月には「誤解や混乱を解消するため、使用しないことが適切」とさらに踏み込んで自治体に通知している。

 その後千葉県では、男女共同参画センターの設置案が議会で否決。福井県では、ジェンダー論に関する書籍約百五十冊が、公共施設の書架から撤去されるなど、各地で波紋が広がっている。

 ところで「ジェンフリ」って言葉を聞いて、ピンと来る人は結構、社会科学にアンテナを張っているヒトじゃないかなぁ…って管理人は思います。
 ジェンフリは「ジェンダー・フリー」の略語です。
 とはいっても、ジェンダー・フリー自体が分かりませんね。なので、自分なりに説明してみましょう。言葉の定義付けを説明するって結構難しい。


 まず、「ジェンダー(gender)」と言う言葉があります。直訳すると「性」ってことになるんですが、「社会的・文化的性別」といった方が分かりやすいと思います。
 つまり、オスとメスといった生物学的な性別(こっちはsexを使います)とは区別されるモノで、一般的に人々が男らしさ・女らしさと言うときの「らしさ」に相当するモノだと言えます。


 いわば、生物学上のオスとメスの違いはしょうがない。生まれたときに選ぶことが出来ないんですからね。でも、ジェンダーに含まれる「男らしさ」や「女らしさ」は果たして所与のモノかどうか?という疑問が出てくるわけです。
 たとえば、ウジウジしている男の子に向かって「男なんだからシャキッとしなさい」とか活発な女の子に向かって「女の子なんだからおしとやかになりなさい」といったのは典型的なジェンダーです。
 このジェンダー。社会的、文化的性差とした方が分かりやすいといった理由は「社会的、文化的」であるがゆえに人々の認識によってどんどん変わっていく。と言うことです。
 例えば、昔は「男子厨房に入らず」で家事は専ら女性がする仕事でした。今では、家事が一通り出来ることは「自立した」人間なら性別をを問わず当然ですね。
 あるいは、女性の幸せは結婚して家庭を作ることだから、大学に行って勉強がしたいなんて生意気なことを言うな。とか。女性は「良妻賢母」たるべしなんていうのは典型です。
 こういった男女の役割分担は、生物学的なオスとメスの違いに由来するモノではなく、そのときどきの社会によって変容するものです。
 逆に言ってしまえば、時代や場所によって異なる価値観によって、本来は同じ人間なのに不必要に男女の区別を持ち込んでいるとしたら、それは是正されるべきだ。というのがジェンダー・フリーです。
 つまり「ジェンダー(社会的・文化的性差)」を「フリー(撤廃)」するのが目的だと考えれば分かりやすいかなぁ。ヒトを「性別」で判断しないで、まず最初に「人間」として捉えるという運動ですね。


 もちろん、生物学的な「オス」と「メス」の違いを撤廃しようと言うのではありません。そもそも撤廃しようがないし、手術でもしないと出来ないし…。さらに言えば、それぞれのヒトがアイデンティティの一部に「男性であること」や「女性であること」というのを妨げるモノでは何らないという事も付け加えないと誤解を招く恐れがありそうですね。


 このジェンダー・フリー、批判するヒトは、専ら保守主義的な観点に立っているわけです。そういう人たちに共通する発想は、「伝統的家族・秩序」の維持です。
 曰く、そのような過度に男女平等を推し進めていけば家族は解体してしまう、とか、社会の秩序は崩壊してしまうなどですね。
 しかし、近年盛んに言われる「家族の崩壊」や「社会の崩壊」は果たして男女平等の結果であるのか?と考えるとはなはだ疑問です。
 それまでの伝統的な拡大家族(複数の世代が暮らす家庭)から核家族(夫婦とその子どもからなる家庭)への移行は経済成長の結果で男女平等の結果であるとは言い難いと管理人は考えています。
 戦後の経済成長はそれまであった都市と農村の関係を大きく転換し、それまで人口比で言えば農村に多かった人口が都市へと流入していきます。
 都市圏を中心に何でもかんでも建築許可を出して、住宅を立ててしまう。都市計画の無さから無秩序に立ち並んだ団地が象徴するように、それまであった地域共同体を破壊し、それに変わるモノを作り上げる支援をしてこなかった。これが大きいと思います。
 さらに資本は市場の大きな都市に集中するのは必然です。資本の集まるところに仕事も集まる。結果、都市への人口流入はますます増大するというわけです。
 そうした社会を維持していく諸条件を破壊ばかりしてきて何も整備してこなかった政治勢力の側が社会や家庭の崩壊を全てジェンダー・フリーに結びつけて考えるのは余りにも短絡的と言わざるを得ません。
 むしろ、そうして単純化することで自己を納得させているのかもしれませんね。
 何か悪いことがあった場合に自己の中に原因を見つけるのではなく、外に見つけて攻撃するというのは今も昔も変わりません。
 ただし、そうした行為の救いがたいところは、表面的には攻撃対象を外に向けることによって自体は解決されたように見えますが、実のところ根本の原因が改善されないために事態はますます深刻になっていくと言うことです。
 だから、自分のためにもジェンダー・フリーになんでも関連づける思考を止めた方が彼ら自身のためにとってもイイと思うんですけどねぇ。

 もっとも、オスとメスという生物学的な性差も最近は対象になって議論されています。その議論はフェミニズムや女性学、はたまたセクシャル・マイノリティの観点から為されていますが、そのあたりの議論は管理人の守備範囲を遙かに超えてしまうし…。
 政治学の側からジェンダーフェミニズムを考えると、それまで政治学が理想化してきた古代ギリシアの政治共同体「ポリス」による「公」と「私」の対立概念それ自体が男性中心的だったという批判がなされたりします。
 今まで盲点となった本質的な批判だけに、こうした批判は非常に重要ですね。
 フェミニズム政治学との関係はまた時を改めて…。