あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

どこからがOUTか分からない。

党機関紙配布は有罪
東京地裁
 共産党の機関紙などを違法に配布したとして、国家公務員法違反(政治的行為の制限)の罪に問われた社会保険庁職員堀越明男被告(52)の判決公判が二十九日、東京地裁であった。毛利晴光裁判長は「公務員の政治的中立性を著しく損なった行為で、放任された場合に生じる弊害は決して軽くない」と述べ、罰金十万円、執行猶予二年(求刑罰金十万円)を言い渡した。被告側は控訴する方針。 

 公判では(1)国家公務員法の政治的行為の制限規定が、表現の自由を保障した憲法に違反するか(2)被告の配布行為が政治行為にあたるか(3)捜査の違法性の有無−などが争点となった。堀越被告側は全面無罪を主張した。

 毛利裁判長は、公務員の政治活動について「表現の自由の一環として保障されるが、絶対的ではなく一定の制約を受ける」と指摘。憲法違反にあたらないと判断した。

 その上で「制限規定は政治的意見の表明まで禁じるものではなく、その行動から生じる弊害を防止することが目的。選挙で特定政党を支援することで、行政の中立性と国民の信頼を損なう危険を発生させた」と述べた。

 判決によると、堀越被告は二〇〇三年十−十一月、衆院選共産党の支持を広げる目的で「しんぶん赤旗号外」などを東京都中央区内のポスト計百二十六カ所に配った。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20060630/mng_____sya_____005.shtml
東京新聞 2006年6月30日朝刊


 日本国憲法においては、公務員の政治活動は制限されている。今回の裁判は「表現の自由」VS「公務員の政治活動の自由の制限」をめぐって争われたというわけだ。


 表現の自由というのは自由権の中でも重要な領域の一つである。それは「思想・信条の自由」と「表現の自由」は密接に繋がっているからである。
 たとえ思想・信条の自由が保障されているとしても、表現の自由が充分に保証されなければ、思想・信条の自由など「画に描いた餅」になってしまう。


 具体的に例を挙げてみよう。
 政府の政策に対して反対するヒトがいる。政府の政策に賛成しようと反対しようとそれは「思想・信条の自由」である。
 しかし、政府の政策に反対するヒトが、新聞に投書をする、とか、ネットやブログに書き込みをした途端に逮捕されるということが「仮に」起こったとしたら、(=表現の自由が保障されないとしたら)そのヒトの思想・信条の自由は果たして本当に保証されていると言えるのだろうか?と言うことになる。だから思想・信条の自由と表現の自由は相互に関係していると言えるし、どっちかが欠けても成り立ちうると言うモノではない。


 もちろん、思想・信条の自由に比べれば、表現の自由は制限を受ける。なぜなら表現の自由を行使した結果、「他者に危害を与える」可能性があるからだ。
 例えば、マスメディアが表現の自由を行使して犯罪被害者本人や家族の情報を「詳細に」報道する、とする。その場合、被害者本人や家族の人権は守られなくなる恐れがある。
 このように、表現の自由も「自由主義」の原理である「他者危害の原則」が適用されるというわけだ。


 上記を踏まえて、ここから本題。
 では、なぜ、日本国憲法では公務員の政治活動は制限されるのか、といえば、それは「行政は中立性を求められる」ということになる。
 現在の日本では「議院内閣制」を採用している。
 「行政」の最高責任者である内閣総理大臣は通常、国会で多数を獲得した政党の党首が就任する。「国会で多数を獲得する政党」というのは選挙を行うごとに変化するかもしれない。
 そーすると、A党が政権与党になっても、B党が政権与党になっても「行政」は常に対応できるような「中立性」が求められるということになる。A党→B党へ政権交代が起こったとき、行政部がA党を支持したままでB党の政策を反映しないなんてことがあってはならないからだ。
 なので、公務員はフツーの人々に比べて政治活動の自由が制限されるということになる。


 ただし、ここには問題があって、いくら公務員とはいっても「やはり一人の人間」である。一人の人間に固有の権利である政治活動の自由を著しく制限することは許されるのか?という批判が当然起こってくる。人権が制限されるというのは、一般的にはピンとこないと思うが、実は非常に重要なコトだ。
 制限される理由として「他者危害の原則」のように分かりやすい原則があれば、判断は簡単である。(実際には、そー単純ではないんだけど…)
 だが、公務員の政治活動を制限する「原則」(=基準)はハッキリしない。どこまでがOKでどこからがOUTなのか、ということだ。デモに参加するのはOK?政治家の講演を聞きに行くのはOK?選挙の時に投票するのはOK?などなど。ハッキリした原則がないから、個別の状況に応じて判断しなければいけない。


 そんなことから「公務員の政治活動の自由の制限」は条文として存在するものの、できるだけ制限しないようにしよう、というのが望まれる。とはいえ判決は既出の通り。
 まぁ、この辺は法学を専門にされるヒトの方が詳しいんだろーけど…。


 政治学的な視点からちょっと考えてみると、果たして中立性は達成できるのか?ということだ。
 つまり、「行政」という組織はそもそも既存の社会秩序の上に成り立たざるを得ない、ということから本質的に現状肯定的である。行政がしょっちゅう右に行ったり左に行ったりしていたら行政はたちどころに停滞してしまう。
 そーすると、そこ(=行政)に属する公務員は必然的に現状肯定的、誤解を恐れずにいえば「保守的」態度を取らざるを得なくなる。そのなかで現状を批判する意見を表明することは、OUTということになるだろう。だからもともと政府に批判的な行動は取りにくいという状況だ。
 それに、休日にやってんだから別に良いのでは?という気もするし。職場でやったら問題だけれどねぇ…。

 例えば、今回の事件は「公務員が共産党の機関誌を配るのは違反」というコトなのだけれど、では、選挙のたびに全国特定郵便局長OB団体「大樹」を中心に活動していたヒトビトは逮捕されたか、といえばそんなことはない。
 確かにOBはすでに公務員の資格を奪われているから「表面上は」問題なさそうなものの、特定郵便局長はその大半が「世襲」である。世襲ってコトは、リタイアしたOBは「親」であり、現役の郵便局長は「その子ども」である。この関係を利用して、選挙のごとに動員を掛けて自民党の「集票マシーン」として機能した。
 それだけあからさまに「政治活動」をしていても今回のように起訴されることはなかった。(もっとも、同じように総評と社会党の関係も同じようなもんなんだけどね)
 なので、管理人としては、「なにゆえ共産党だけなのかなぁ」と考えてしまう。どうも、立川反戦ビラ事件をはじめとして一連の流れに共通の発想があるのか…と邪推してしまいかねない。