あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

小田実と参議院選挙を繋ぐもの

 小田実が他界した。
 ご冥福をお祈りします。

作家の小田実さんが死去 国際的な反戦運動に尽力
朝日新聞 2007年07月30日03時52分


反戦反核など国際的な市民運動に取り組んだ作家で、「ベトナムに平和を!市民連合ベ平連)」元代表小田実(おだ・まこと)さんが30日午前2時5分、胃がんのため東京都内の病院で死去した。75歳だった。自宅は公表していない。


小田実さん
 1932年大阪市生まれ。45年の敗戦前日の8月14日に大阪大空襲を体験、そこで目の当たりにして後に「難死」と呼んだ「無意味な死」への怒りが言論活動や市民運動の源泉となった。

 東京大文学部卒業後の58年、フルブライト留学生として米国ハーバード大学へ。このときの体験とそれに続く欧州・アジア巡りをつづった1日1ドルの貧乏旅行記「何でも見てやろう」(61年)がベストセラーに。飾り気のない文体と世界の人々と同じ高さの目線で向き合う姿勢が共感を呼んだ。

 65年、ベトナム戦争に反対して哲学者の鶴見俊輔さん、作家の開高健さんらとベ平連を結成。米ワシントン・ポスト紙に日本語で「殺すな」と大書した反戦広告を掲載するなど、運動の支柱となった。

 ベ平連解散後も、執筆の傍ら政治問題と正面から向き合い、市民の側から発言を続けた。76年には北朝鮮を訪問して当時の金日成主席と会見。87年の東京都知事選では当時の社会党から立候補を打診され、断った。

 95年の阪神大震災は自宅で被災。公的支援の貧弱さを身をもって体験、被災者支援法成立に尽力した。04年6月、作家大江健三郎さんや評論家加藤周一さんらと、憲法を守る「九条の会」の呼びかけ人となった。

 小説では庶民の生活に根ざした素材と言葉で、心のひだへ分け入った。「HIROSHIMA」で88年、第三世界最高の文学賞とされるロータス賞を受賞。97年に川端康成文学賞を受けた「『アボジ』を踏む」は演劇にもなった。

 07年春に末期がんがわかり、親しい知人に手紙で病状を明らかにしていた。著書「中流の復興」では、武器を売らぬ平和経済で繁栄したことが日本の誇りであり、その基盤となった中流層復権を訴えた。

 日本の社会運動史において、上記記事にある「ベトナムに平和を!市民連合」(通称、べ平連)の運動が「市民運動」のはじまりだと言える。
 それ以前の社会運動は、労働組合に先導される労働運動だったり、女性運動団体によって先導される女性運動だったりと、国民的な運動に盛り上がる「火付け役」としての団体が存在した。
 べ平連がそれまでの運動と異なったのはまさにこの点で、「ベトナム戦争に反対する」という一点で主義主張や出身の異なる多くの一般大衆が参加した運動であったのだ。べ平連の運動に参加した人びとは、それぞれに家庭や職場のある、いわば一般市民であって、「活動家」ではない。そこが現在でも続く市民運動において「最初の市民運動」と呼べる出来事だったのである。

 「べ平連」という平和運動市民運動の原点に携わった小田実の、そうした原動力になったのが記事にある「戦争体験」であることは間違いない。
 このようにして思うと、アジア・太平洋戦争終結から62年間経つわけだが、その62年間はそうした戦争を直接体験した先達による「復興と反省」の歴史であったといえる。このあたりは前回、宮沢喜一の他界に関連しているので参考にして貰えればいいのだが(http://d.hatena.ne.jp/takashi1982/20070629/1183097453)、このときの記事に付け加えるとすれば、それは戦争によって人間がボロ雑巾のように使い殺され、人間の死が単なる数字上の統計に帰されてしまうような、まさに「無意味な死」という過ちを繰り返さないための歴史でもあったといえる。

 そういった歴史を安倍晋三は果たして知っているのか、知らないのかは分からない。
 しかし、安倍にとっては、戦後の日本社会がそうした「戦争体験をいわば社会全体に体験化」させることによって営まれてきた政治が、「戦後レジーム」として蛇蝎(だかつ)のごとく忌むべきものとして映っているのだろう。
 「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権では教育基本法の改定や憲法改定のための国民投票法案などを成立させ、その究極的な目標は日本国憲法の改正だという。安倍にとって敬愛する祖父・岸信介(1896- 1987、首相在任1957-60)が成し遂げられなかった憲法改正こそ、悲願の目標なのである。その点で、安倍晋三の「戦後レジームからの脱却」、ならびに、目指すべき「美しい国」というのはその動機に極めて「私的な思い入れ」が存在するのである。(なお、岸信介に関しては「安倍晋三岸信介を繋ぐもの」http://d.hatena.ne.jp/takashi1982/20060929/1159544690としてエントリを以前に書いた)

 今回の参議院選挙で言えば、確かに小泉構造改革によって加速された格差の拡がりが実感されつつあるという社会状況に加え、議会民主主義を無視した強行採決、事務所経費の問題と大臣の自殺、閣僚の失言、年金問題などの様々なマイナス要因が自民党に打撃を与えたのは間違いない。しかし、そもそもスタート段階として「戦後レジームからの脱却」や「美しい国」などといった、空虚な内容のスローガンを連呼し続けたところにこれだけの大敗をもたらした問題があったといえないだろうか。
 もっと突っ込んだ言い方をすれば、愚かな指導者によって引き起こされた15年間に及ぶ戦争が日本全土を焦土と化させ、全くの焼け跡から飢えと貧しさに耐えながらも、懸命の努力によってこれだけの豊かな社会を築き上げた(僕らにとっての)祖父母・曾祖父母らによる「戦後レジーム」は本当にオール否定の対象なのか、ということだ。それこそ、彼ら・彼女らの懸命の努力に対する大変な侮辱とはならないのだろうか、ということである。
 戦後巻き起こった「民主化第二の波(←ハンチントン)」の後、アジア諸国では反動が起こった。韓国、インドネシアにおいて軍事政権が樹立されたのはその証左である。
 しかしながら、戦後の日本は憲法の制約や、また、国民に広く共有された厭戦気分もあり、そうしたクーデターの類は一切無かった。明治期から議会政治の伝統があるとはいえ、これは特筆すべきことだろう。

 ことさら戦後からの現代史をマイナスに捉える必要はない。そこに問題があったとしても、それは目指してきた方向(人権の尊重や平和主義)が間違っていたからではない。現実と理想との完全な一致は可能なものではないにしても、両者の間に緊張関係を持って、その先の政治を見つめていく、ということが実は現在において求められているような気がする。
 その時に、小田実の社会へのまなざしや行動というのは、ひとつの例として学ぶべきところが数多くあるのではないかなぁ、と思う。




p.s.スゲー時事的なことを一切捨象して、極めて抽象的な文章に仕上がってしまい申し訳ないので、ちょこっと選挙の話を。

① 7月27日の日記の通り、従来自民党の地盤であった農村を民主が奪ったために、地滑り的な大勝となった。
 けど、2005年衆議院総選挙(郵政選挙)の時と違って今回の民主党の大勝は「自民党の批判としての勝利」であって、その意味では「消極的選択」の結果であると思う。2005年の総選挙の時は小泉自民党に対する「積極的信任」であった。この違いは大きい。


② 個人的に注目の候補者は山本孝史(民主・比例)だったが、20番目というギリギリながら当選した。
 本館でも去年エントリ書いたけれど、山本は去年、自らガン患者であることを公表して、与野党で対立していた最中、「ガン対策基本法」を超党派で成立させる中心的役割を果たした。それから一年余りの間に、山本はちょっと見ていて気の毒なくらい痩せて(ステージ?だという)、体力的に出馬するか気がかりだったが、それでも「いのちを守る仕事を国会でする」という決意は本当に頭の下がる思いである。
 「6年間もつか分からないけれど頑張る」というコメントだったけれど、無理のない範囲で頑張って欲しいと思った。


③ 自民の歴史的敗北・民主の大勝なのだが、正直、それ以外の野党はほとんど奮わなかった。共産・社民など小泉旋風との前回とは違って、今回は議席が増えると思ったら、そんなことが全くなかったのが、今後の考察対象。とりわけ共産党の組織体力低下は管理人の想像以上で驚き。
 今回みたいに、民主の小沢が「生活第一」といってリベラル色を強めると、この二つの政党は憲法以外に存在理由を失ってしまうのかも。投票の選択肢が少なくなることは個人的に良くないと思うので、考えどころ。


④ 参議院で与党が過半数をとれない、政治学で言う「Divided Government」状態が少なくとも当分続くことになる。今のアメリカなんか、上院と下院で議会勢力が違うから似たようなもんだね。向こうは大統領制だから日本より影響は少ないのが違いだけど。
 これだけ自民が大敗すると、反省して「理性的で丁寧な政治」を自民党がする可能性がある。それと共に敗北した公明党が独自色を出そうと、平和や政治とカネの問題で自民党に鋭く迫る場面も出てくると思う。
 いずれにせよ、自民党が「衆議院の数の奢り」から、多少は改まるのではないかとは思う。