オセローをみる、切れ切れの感想。
彩の国シェイクスピア・シリーズ第18弾 『オセロー』@さいたま芸術劇場
あらすじは以下のとーり
ヴェニス公に仕えるムーア人の将軍オセローは、若きデズデモーナを妻とし、二人は深く愛し合っている。旗手イアゴーは、自分ではなく同輩キャシオーを副官に昇進させたことで、オセローに深い恨みを抱いている。イアゴーは忠実な部下を装いながら、オセローを罠にはめるべく、デズデモーナがキャシオーと通じているとうそぶく。誠実なオセローはその策略にはまり、深く愛するがゆえにデズデモーナへの疑いを募らせ、その抑え切れない嫉妬心は妻の真実の言葉さえ信じることができなり・・・。
オセロー…吉田鋼太郎
デズデモーナ…蒼井優
イアゴー…高橋洋
スープは冷める距離なんだけど、自転車で通える範囲にある、さいたま芸術劇場。
数年前から芸術監督に蜷川幸雄を招いたことから、演劇が活発に行われている。ただ、そのあおりを喰らって、音楽のウェイトは下がったな。演劇ホールやクラシックホールなど複数のホールを持つ文化施設に対して、責任者の専門がどこかに偏るのは施設の有効利用という観点からすると、果たしてどーなのだろうという気はする。
まー、現・埼玉県知事の文化行政に対する理解の程度が知れる、そうした一例かもしれない。それにしても文化に理解のある政治家が少なくなったような気がするのは勝手なイメージなのだろうか。
政治学をやっているからそんなことを考えてしまうのだけれど、ひとまずおいといて、芝居自体は非常に楽しめた。
前半1:50→休憩15分→後半1:50とほぼ4時間かかった長丁場だったけれど、特に後半は時間が経つのをホントに忘れるくらい、舞台に引き込まれていった。
悲劇はしばしば喜劇になる、という言葉があるみたいだけど、まさにそんな感じ。
ただ、舞台を見る前に予め『オセロー』を読んだときは、この作品にある喜劇性というものがそれほど感じられなかった。けれど、おそらく原作(ひょっとするとシェイクスピア作品)に含まれる悲劇の中の喜劇性を演出の過程でうまく掬い上げ、描出しているのであろう蜷川幸雄の手腕には脱帽だ。
起こっていることはまさに悲劇そのものなんだけれど、神の視点(シェイクスピアの視点であり観客の視点)からはそうした人間の行為が哀しさを通り越して滑稽にまで感じてしまう。そここそがシェイクスピアの意図なのだろう。
パンフレットにもあったが、ムーア人(ベルベル人のことかな)オセローは人種的にマイノリティであり、旗手イアゴーは身分的に下層市民である。単に愛憎劇だけではなく、その背景に厳然と存在する社会秩序にこれらの登場人物はある意味において翻弄されていくのである。そう考えると、そうした社会の風刺をしているともとりようによってはとれるかもしれない。
もう一つ思ったのが、この嫉妬の心理というのはやはり「男性」シェイクスピアらしい視点であろうとも思う。たとえば『源氏物語』において紫式部が描く宮廷社会の女性像はその愛憎の形態が非常に繊細であり、女性の心理描写という観点からすれば恐ろしいほど深いものがある。(たとえば源氏に対する六条御息所、葵の上、紫の上の感情表現など、ほとほと感心する)
今回のキャストの中で舞台上のキャリアが少ないだろう蒼井優が一番厳しいのかな、と思っていたが、そんなことはない、まさに堂々とした演技だった。さすがアニー。
オセローの吉田鋼太郎も堂々たるオセローから嫉妬にまみれて転落していくオセローまでを説得力ある演技によって表現していたし、イアゴーの高橋洋もその二面性を上手く描写できていたと思う。ヒトの想像力はときに貧困で、本当に悪いヤツというものを想像することは難しい。僕らが二面性のあるキャラクターをイメージするとき、そこにはある種の完成された(ステレオタイプ的な)キャラクターを思い描くのだけれど、決してそんなことはない、ということを思い知らされる。
ただ、セリフの早回しの箇所ではちょっと言葉が聞き取りにくかったところもあった。
原作読んでいれば問題ないのかもしれないけど…。
- 作者: ウィリアムシェイクスピア,松岡和子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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