あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

土井隆義『友だち地獄』(ちくま新書)を読む

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

誰からも傷つけられたくないし、傷つけたくもない。そういう繊細な「優しさ」が、いまの若い世代の生きづらさを生んでいる。周囲から浮いてしまわないよう神経を張りつめ、その場の空気を読む。誰にも振り向いてもらえないかもしれないとおびえながら、ケータイ・メールでお互いのつながりを確かめ合う。いじめやひきこもり、リストカットといった現象を取り上げ、その背景には何があるのか、気鋭の社会学者が鋭く迫る。

第1章 いじめを生み出す「優しい関係」(繊細な気くばりを示す若者たち 友だちとの衝突を避けるテクニック ほか)
第2章 リストカット少女の「痛み」の系譜(高野悦子南条あやの青春日記 自分と対話する手段としての日記 ほか)
第3章 ひきこもりとケータイ小説のあいだ(「自分の地獄」という悪夢 「優しい関係」という大きな壁 ほか)
第4章 ケータイによる自己ナビゲーション(ケータイはもはや電話機ではない 「ふれあい」のためのメディア ほか)
第5章 ネット自殺のねじれたリアリティ(ネット集団自殺がみせる不可解さ 現実世界のリアリティの希薄さ ほか)

 土井義隆は筑波大院教授(社会学)。
 このところ青少年を分析した新書だと、精神科医を初めとする心理学的な見地からの分析が多いように個人的には感じていたが、本書は社会学的に見た場合、どのようなことが言えるのかと迫ったもので、趣味の問題はあろうが、管理人にとっては非常に興味深く読むことができた。
 もっとも、現代の若者の変化はかつての宮台真司のようにサブカルに接近しつつ分析したものもあるのだけれど、そこで取り上げられる対象は一見すると「特異」に見えてしまうのに対して、土井のこの視点は、そうした陰に隠れがちなほとんど全てと言っていい「」普通の若者たち」へ向けられている。
 他者と積極的に関わり合いながらも、それゆえに対立をしないように細心の注意を払う関係を土井は本書の中で「優しい関係」と呼んでいる。この関係では非行に走る場合もいじめに向かう場合もいわば、その友人関係における「優しい関係」の重圧にさらされているという背景が存在するというのである。このような対立を回避する、優しい関係における犯罪というのは、それ以前に人格形成を受けた我々大人(とはいえ、管理人は片足をこっちに突っ込んでいる世代であるのかもしれないが…)には「訳のわからなさ」に伴う、体感治安の悪化を感じるのである。
 こうした変化の背景には個性化教育の意図せざる結果が関係しているという。それまでの教師対生徒の対立が崩れ、かつてであれば教師に向けられることで発散されたフラストレーションが生徒自身に内面化され、それが「優しい関係」ゆえに他者へ向けられることはなく、蓄積されていくという循環が繰り返される。
 もちろん、今挙げたのは本書で言うところの第一章の記述なのだが、以下の章において指摘される今日的な状況が現代社会で生きる若者の「生きづらさ」を作り上げていると言えるのだろう。  
 とはいえ、最後に著者の文章が面白い。著者はそうした「生きづらさ」が全面的に解消されることを望んでいないという。どの時代においても、若者はその時代への「生きづらさ」を持っていたと言う指摘はさもありなんである。従って、本書はそうした現代の生きづらさを考えるきっかけの書となることを希望している。
 形こそ違えど、青年期における生きづらさは、近代以降の社会における共通の問題である。だとしたら、そうした生きづらさを除去するのではなく、一人ひとりがそこから抜け出せるようなイメージを持たせることができるかが求められているのかもしれない。