あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

日清戦争 「国民」の誕生

日清戦争─「国民」の誕生 (講談社現代新書)

日清戦争─「国民」の誕生 (講談社現代新書)

 著者は恵泉女学園大学准教授。専攻は国文学。「戦争に行かなかったごく普通の日本人が、日清戦争をどのように体験したか」という「はじめに」での問いかけからも明らかなように、著者は直接戦争に参加しなかった多くの日本人が「日本人」として覚醒するきっかけになった日清戦争を巡る言説をメタレベルで考察した著作だと言える。

 「はじめに」にはさらに以下のように続けられる。「そこにあらわれた近代日本のナショナリズムを支えた大衆的基盤のありよう」が「どのようなしくみでもたらされ、どのように展開」されていったのか、という問題である。

 なぜ韓国(当時は朝鮮)に日本は進出したのか。著者は佐佐木信綱の『支那征伐の歌』を引き合いに出しながら次のように述べる。

 「佐佐木信綱は、日本の行為は、隣国を助けたいという純粋な「義侠心」によるものとしている。そこには侵略的な意図は、まったく認められない。強大な清の支配に苦しむ隣国を独立させることは、あくまでも日本の善意なのである。その一方でこの歌は「高麗もろこしの果てまでも、かがやきわたる日本の、御稜威の風に靡かせむ」というのだから、日本の悔いを発揚したいという意図もまた、明白である。

 こうしてみられるように、相反する二つの心理的モメントが佐佐木信綱にはまったく自覚化されていない。なにもこれは彼に特有のことではなく当時の日本人には、これが至極当然の姿であったところに「今日から見れば最大の問題がある」のだ。

 甲午農民戦争をきっかけに勃発する日清戦争だが、戦闘行為そのものではなく、別の側面からこの戦争での変化に注目すれば「従軍記者」の誕生が挙げられるだろう。新聞ジャーナリズムの黎明期にあるこの時代に、多くの新聞社が部数を競いあうために多くの記者や作家、画家を戦地へと派遣していった。そして、これらの新聞記事の多くが遅れた社会の典型例として清を位置づける記事を書いている。
 こうした記事が書かれる背景に著者は「清の対極にある日本の姿を強く意識した、日本のネガとしての清のイメージを表現している」と読み取っていく。そこにはかつての徳川封建体制を明治維新によって乗り越え、富国強兵の元、西欧化を成し遂げつつある自尊心のようなモノが見え隠れするのである。つまり、新聞紙面において「否定され、切り捨てられているのは、清を経由した日本の過去であったともいえる。」それは取りも直さず、日本が「清をネガとした自己像を獲得した」契機を与えたとも言えるのだ。

 日清戦争自体は黄海海戦での勝利もあり、日本軍の勝利に終わった。しかしその経緯において発生した旅順攻略での民間人の虐殺事件を巡って、欧米の新聞と日本の新聞は対立をすることになる。事実関係としては旅順攻略の際、多数の民間人が殺害された、というものなのだが、問題となったのはそれを巡る報道のあり方であった。
 「この事件が戦争の認識枠を傷つける要素を多分に持っていたためだろう」と推量するように東アジアでの啓蒙の旗手たる日本がその「文明度と正義を揺るがしかねない」虐殺行為をする訳にはいかない。(しかし、事実としてはしてしまった)そこに国内向けの報道としてのあり方が問われるのである。
 結局、虐殺行為を報道した欧米ジャーナリズムに対して、国内ジャーナリズムは執拗に反論していく。そして国民は事実関係を知らされないまま、時の経過とともにこの問題は闇へと葬られたのである。

 また、新聞ジャーナリズムは多くの無名兵士たちの「美談」を紹介することによって多くの読者を獲得していく。「勇敢なる水兵」や「死んでもラッパを口から離しませんでした」の木口古兵の話である(なお、このエピソードについては、当初から木口がラッパ吹きだったのではなく、白神源次郎であった、など、なかなか詳細に論じられている)。
 こうした事例から明らかになるのは「客観的な情報であるはずの新聞報道が、強烈な戦意高揚のプロパガンダへと容易に転化するという情報伝達のありかた」である。しかし、これは新聞ジャーナリズムが最初からそういう方向へ世論を誘導したわけではない。そこには「感動を求める読者が存在していたのであり、新聞記者は必死になって美談を取材したのだ。だからメディアと読者は共犯関係にある。そのような関係を成立させたのが当時の社会の空気だった」と考えるのである。

 もちろん、著者はここで「空気」という言葉を使って、当時の時代状況を集約してしまっているきらいはある(もちろん、そのような時代の「空気」に関する研究はまた別のテーマだろう)。ただ、そこに存在する大小様々の無名兵士による美談を集めることで「国を挙げて戦った戦争という実感が醸成される」し、それこそが「国民国家の軍隊を成立させた根幹にある実感だった」のである。これらの美談が教科書で教材として使われるとき、美談は単なる美談ではなく、もはや国民の神話へと転化し、国民の戦意高揚の土台を形成することになるのだ。

 そうした動きは早くも戦争直後から見られる。「戦争は最大教育なり」と題する社説を掲載した東京朝日をはじめ、社会階層の上下を問わず、日本社会が戦勝の高揚感をもった熱病のような状況になるのだ。それは戦争終結後、明治天皇が広島から東京へ戻るときに最高潮を迎える。
 「かつて、国民がこれほど熱狂的に天皇を歓迎したことはなかった。比喩的な言いかたが許されるなら、このとき、天皇は神になったのである。…。日清戦争がもたらしたのは、社会の再構成だった。天皇を君主として上に戴くことで、国民が平等であるという実感が醸成された。そのような平等な国民と、君主としての天皇が直接会う場が、行幸なのである」
 ただし、ここで注意しなければならないのが、それが上からの近代化、と呼ばれるように上からの国民化、ではないことである。「天皇の奉迎がなかば自発的に、なかば組織的におこなわれていること、そしてそれが国家への協力体制を構築する契機となって」いたのである。そこではもう「戦争はもはや、他人事ではなかった。戦争は社会全体で支えられており、その意味では誰もが「当事者」だった。国民によって支えられた戦争という意識が、このとき成立した。それは国民と運命をともにする国家の誕生でもある」という指摘は示唆的であろう。ややもすると、われわれは当時の日本が軍国主義化していくに際して軍部の圧力というモノを想像しがちである。しかし、事はそのように単純ではないし、いかに支配層が国民意識を植え付けようとしても、何らかの契機がない場合、そのような意識というモノは極めて持ちにくい。
 社会、学校、軍隊がまさに入れ子のように組み合わさりながら新たな権力形態を生み出していく。それが当時の日本社会だったのである。


 追記として面白かった箇所は、「歌舞伎」の現代的位置づけと「演劇」の誕生であろう。 現在でこそ歌舞伎は「古典劇」としての地位を確立しているが、そのきっかけとなったのもやはりこの日清戦争を契機とするらしい。江戸時代以来「同時代の事件や話題を巧に舞台化してきた歌舞伎は、このとき完全に「古典劇」と化したといって良い。歌舞伎はニュース性を失ったのである。」なぜなら、「観客が演劇に求めるリアリティの質」が「社会の変質に伴うリアリティの変容」とともに変化したからであると推察している。新聞ジャーナリズムの台頭や演劇の登場によるメディアの更新は、既存のメディアを刷新し、それまでのメディアに同時代性をもはや付与することはなくなったというのは、歌舞伎を考える上で、また伝統芸術そのものを考える上で、ひとつの視座を提供してくれると思う。