あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

デュトワ再び~新日本フィル 第650回定期演奏会

プログラム
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
ストラヴィンスキーバレエ音楽火の鳥組曲(1919年版)
ベルリオーズ幻想交響曲 op. 14
指揮:シャルル・デュトワ

 

 新日本フィルデュトワ指揮のトリフォニーシリーズを聴いた。昨シーズンの海やラヴァルスほかのプログラムに続いてのデュトワだ。プログラムはドビュッシー「牧神」、ストラヴィンスキー火の鳥」、ベルリオーズ「幻想」という自家薬籠中ともいえるプログラム。

 結論から言うとデュトワのおなかいっぱいプログラムとでも言うのだろうか。最初から最後まで堪能したコンサートだった。「牧神」のフルートからゾーンに入った感じがする。フルネ/都響の時もそうだったけれど、「印象派の曲をするときのオケの響き」が聴ける演奏会はかなり少ない。

 一聴しただけで、それぞれが透明感を持ちながらそれが正しく重なり合い、あの独特の響きをもたらす。フルネの時はそこに荘厳さが感じられたんだけれど、今日のデュトワは穏やかな日差しが差し込むような明るい柔らかさがあった。(それこそモネの「日傘を差す女」の世界)

 今日のMVPはフルートではないか?と思わせる展開。
火の鳥も色彩感あるデュトワカラー全開。ココで聴けるとは!「カスチェイの踊り」で聴かせる金管の鋭いながらも無機質にならない響き、見事!
そして、「幻想」はモントリオール響のCDから深化した演奏。あれを想像していたら、大間違いだった。色彩の豊かさやエレガンスはそのままに、コンバスの地鳴りのような響き、1stと2ndヴァイオリンのお互いにうねり合うような掛け合い、これは録音して欲しいなぁ,と思わせる演奏だった。
 演奏の衝撃度でいえば都響&ロトに軍配だが、全体としての完成度は今日のデュトワに軍配が上がるだろう。それほどまでにこの「幻想」は聴いたことが音楽人生の宝になる演奏だった。
 ここ数年、往時の勢いがないとも評された新日本フィルだけれど、いやいや、デュトワとのコンビ、本当にイイじゃないですか。是非このまま行って欲しい。

 

「未来をつなぐもの3 楽園」(作:山田佳奈、演出:眞鍋卓嗣)を観る。(新国立劇場)

スタッフ
【作】山田佳奈
【演出】眞鍋卓嗣
【美術】伊藤雅子
【照明】佐藤 啓
【音楽】久米大作
【音響】加藤 温
【衣裳】山下和美
【ヘアメイク】高村マドカ
【演出助手】城田美樹
【舞台監督】川除 学

キャスト
豊原江理佳
土居志央梨
西尾まり
清水直子
深谷美歩
中原三千代
増子倭文江

 シリーズ「未来をつなぐもの3 楽園」(作:山田佳奈、演出:眞鍋卓嗣)を観る。(新国立劇場
 沖縄の離島(っぽい)を舞台に、神社(寺?)を舞台にムラの神事のために集まった7人の女性による会話劇だった。この前観た「ハートランド」も会話劇だったけれど、今回はそれぞれに「ありそう/いそう」な人物像だった。もっとも、それがムラの嫌なところを煎じ詰めているような側面を持ったキャラクターなのも観ていて気持ちよくはないが魅力的である(笑い)。
 噂話、男尊女卑のイエ意識、余所者への冷淡さとか、噴飯物なのだけれどそこにオチを付けコメディ要素を各所に取り入れているので、面白く観られる。そんななかで、胡散臭くもある巫女が結局のところ、人生や社会のダメなところを悟りながら(受け入れながら)、神事を行うあたりが物語に奥行きを与えているように思う。(個人的にはクライマックス)自分も地方に住む親戚が、かつて地方議員を務めていた関係で多少は聞いてはいるのだけれど、田舎の島で村長選挙があると大変なんだろうな。
 あと、島内の祠で神事をして廻るっていうのがブラタモリで観た沖縄回の光景が想起されて、ホンモノは観てみたいと思った。

 

パシフィックフィルハーモニア 第156回定期のことなど

シューベルト交響曲第5番 変ロ長調
シューベルト交響曲第9番 ハ長調 「ザ・グレート」

指揮:外山雄三

 

 今さらながら、先日のパシフィックフィルハーモニア東京の演奏会について書いてみる。
 10年ぶりくらいの外山雄三と言うことで聴きに行った。御年92歳。大阪交響楽団は定期的に振っていたが在京オケはご無沙汰である。ところが、開始前に楽団長がマイクを持って登場すると、ゲネプロ後、体調が悪くなったという説明を受ける。シューベルトの5番は指揮者ナシ。休憩後の9番のみ指揮するという。出てきた瞬間にこれはあるなと思ったら、思った通り。
 かくして、指揮者ナシによるコンサートが始まった。
 そういえば、ゲネプロで体調不良というのは2005年に都響/フルネでもあったな、と思いだした。この時は伊藤惠のモーツァルト・ピアノ協奏曲(だったか?)とデュカスだった。凄い集中力で弾ききっていたが、今回も同様。
 外山の最近のCDだったらもっと遅くて良いはずだけれど颯爽と音楽が流れる。音量もしっかりとしていてメロディがハッキリしていてよい。

 後半の9番は袖からスタッフ2名に介護されて登場。リハからそうだったのか(もともと足腰が弱っていたのか)、体調不良なのかは判断がつかない。でも、杖も車いすもないから、普段はもうちょっとしっかりしていたのだろう。だとすると危ないのでは?指揮台でなにやら冗談を言っていた様子。音楽自体は、先に発売しているチャイコフスキーのCDみたいにゆったりと、でも全てがゆっくりではなく結構あっさりインテンポのところもあった。で、伸びやかに、響きに丸みがある。これも「CDみたいな感じでシューベルトやるとこうなのか」と思った。
 第2主題から着席。大丈夫か?第1楽章は腕が動いていたが、それ以降は左手が時折指示を出すくらいで右手は2階席からだと動いていないように見える。手首だけで振っていたのかも知れないけれど、それは分からない。音楽は大らかに進行している。でも豊かになりっぱなしで、弱音のニュアンス的なモノはない。

 第3楽章も音楽のエネルギッシュさとは対照的に外山は動けない。時折、うしろの手すりに左手を掴んでバランスを取っている。立ち上がろうとしているのか、そうでないと体制が維持できないのか良く分からない。意外とひやひやする。4楽章に入る前に、コンマスに何か話しかけていた。演奏自体はスケールを伴い、かつ、豊かな響きで進んでいくが、第1主題が終わったくらいでタオルを取り出したところで、第2ヴァイオリンの最後列の人が異変に気付き、ステージ袖からスタッフへ⇒スタッフ2名が指揮台へ駆け寄り、外山の意識を確認していた様子である。客席最前列に座っていた楽団長がステージへ向かい、同じく男性スタッフがステージの飛び乗った。袖から車いすが用意され、介抱されながら、車いすに乗って袖へと入った。
 かなり衝撃的な場面なんだけれど、オケは進行していた。おそらく、本番前にどんな場合でも音楽は止めないという打ち合わせができていたものと思われる。演奏自体はそんなところで、外山が元気であれば落ち着いて聴けたが、あまりに衝撃的な場面に全て持って行かれた感じである。
 終演後、外山は袖から2度ほどカーテンコールに応えていたので、命の危機ではなさそうだ。疲労から来る血圧の問題か?正直、本人がやると言ってもここはドクターストップをかけるべきであったと思う。あるいは、初共演で通常の指揮者と同じ、3日のリハーサルというのもマズかったかも知れない。
 普通ならあり得ない状況でも弾ききったオケには健闘を讃えるけれど、いろいろ考えたもの事実だった。

 

 

アルゲリッチを今年も聴けた。

日本生命presents ピノキオ支援コンサート 室内オーケストラ・コンサート
別府アルゲリッチ音楽祭・水戸室内管弦楽団共同制作

出演
ディエゴ・マテウス
マルタ・アルゲリッチ
水戸室内管弦楽団
プログラム
S. プロコフィエフ交響曲 第1番 ニ長調 op.25〈古典的〉
I. ストラヴィンスキー:〈プルチネッラ〉組曲
Z. コダーイ:ガランタ舞曲
M. ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調

 今日はアルゲリッチ音楽祭in東京、とでも言うべき、水戸室内管弦楽団との共演だった。
 水戸室内管は初めて。ずっと気になってはいたけれど、なぜかタイミングと曲目で縁がなく、仕事を工面してでも聴きに行こうとは思わずにいて今に至ったけれど、個々のプレーヤーの技量が高く、室内オケながら音圧は充分。
プロコフィエフから音量に不足しない。ストラヴィンスキー「プルチネッラ」のファゴットの巧さ、コダーイ「ガランタ舞曲」のクラリネットオーボエがニュアンスに富んでいて印象に残った。
 もっとも、指揮のディエゴ・マテウスはインターナショナルな感じでコダーイの土っぽさやラヴェルの小粋な感じ(エスプリ感,とでも言うのか)は感じられずに表現力としては没個性的かなぁ。悪くないけど、凄くよくもない。来月のデュトワと比べてどうか。
 オケの個々人のアンサンブルを聴く演奏だったと思う。
 事実上、メインプログラムとなったラヴェルのピアノ協奏曲は、自分としては念願の、というか、ついに、という演奏。
 とはいえアルゲリッチも御歳81歳である。これがラフマニノフとかチャイコフスキーだったら苦しいかもしてないが、ラヴェルであればマルグリット・ロンの録音も80歳くらいの時の演奏であれだけ素晴らしいし、問題は少ない。聴きどころは(スマホ鳴ったが)2楽章だったと思う。変幻自在、音符があそんでいるかのような演奏。そのまま3楽章も良かった。アンコールで3楽章をやってくれたが、そっちはいっそう思いっきり弾いている感じ。遊んでいるとでも言うのか。全体の統一感とか緊張感とかは当然最初の方。アンコールは、まさにアンコール向けに弾いたな、と。
 とはいえ、去年も思ったが、歩き方とかすっかりおばあちゃんなんだけれど、弾き出すとやっぱりそこはアルゲリッチなんだな、と思った。
 とても幸せな時間だった。聴けたことを一生の宝物にしたい演奏会だった。

 

東京都交響楽団 第975回定期演奏会Aシリーズ

[出演]
指揮/山田和樹
合唱/東京混声合唱団*、武蔵野音楽大学合唱団*
児童合唱/東京少年少女合唱隊**
[曲目]
三善 晃:混声合唱とオーケストラのための《レクイエム》(1972)*
三善 晃:混声合唱とオーケストラのための《詩篇》(1979)*

三善 晃:童声合唱とオーケストラのための《響紋》(1984)**

 

 昨晩は都響定期演奏会で3年ぶり?のリベンジとなった三善晃の「反戦三部作」ということで「レクイエム」「詩篇」「響紋」という、生で次に聴くことはないかも知れないくらいレアな演奏会。 むしろ、ウクライナ侵攻や憲法改正を経ない敵基地攻撃能力の解禁など平和へのリアリティに向き合わねばならない状況だから、演奏会自体もタイムリーなモノになったと言える。そして没後10年、生誕90年のメモリアルイヤーが重なったのも2023年の演奏史における重要な記録になったと思う。
 演奏は実演を生で聴くことが出来て本当に良かった。と言う一言に尽きる。三善晃の才能に驚くと共にこれだけの音楽を邦人作曲家が書いたという事実はもっと注目されて然るべき。
 レクイエムはところどころしか歌詞が聴き取れない。それでも合唱のひとり一人は届けようとする。でもマスとしての響きの中では分からない。断片のみが聞こえてくる。まさに戦争だろう。そこにはも戦闘あろうし、空襲もあろうし、三善自身が奪われた日常でもあるのだろう。ともあれ総体としての戦争である。なんという音の「暴力」「無慈悲さ」だろうと感じた。
 「詩篇」はレクイエムに比べるとずっと整っている。宗左近の詩という一つの作品から作曲されていることも関係するかも知れないし、レクイエム承けてものだからだろう。「レクイエム」の暴力性がピカソの「ゲルニカ」に通じる、ある種の同時性と社会性にあるとすれば(作曲年代は違うんだけれど)、「詩篇」は明らかに「個々人に内面化された戦争」のそれである。だから、最後には受容というか諦念ともいうべき方向へと曲は収束していく。

 「響紋」は児童合唱が歌いながら入っていくのも印象的だ(指示なのか演出なのか分からない)。ここで「うしろの正面だぁれ」は強烈だ。(海老名香葉子やの作品はストレートだけれど、同時に野坂昭如の小説も想像してしまうくらいに子どもと戦争の話はインパクトがある)

 合唱は総じて大健闘。都響も素晴らしく、収録してあったからTV放送は当然なんだけれども、できればCD化して欲しいと思う。
あと、三善晃の作品集のCD持っているとは言え、もっと実演を聴きたいと思った。ここはプログラミングをもっと意欲的にしても客はついてきそう。

 

ゆうめい「ハートランド」を観る。

作・演出
池田 亮
■コメント

普段は実の父親に出演してもらったり、亡き祖父の絵画を舞台美術に加えたりする私達ゆうめい。
ですが今回の新作は、とあるコミュニティでのフィクションを描きます。
フィクションといっても現実との地続きで自分が見て会って話してきた「東京芸術劇場に出演できない存在」の行方を描く所存です。
現実や非現実の体験をリアルにもエンタメにも変容できる劇場にお越しください。
どこにいっても抗えないけど抗えそうな行方をひやひやしながら描きます。
心よりお待ちしております。

出演
相島一之 sara 高野ゆらこ 児玉磨利 鈴鹿通儀 田中祐希

 

 今週もハードで、池袋を寝過ごす一歩手前くらい草臥れていたけれど、始まってからの演出がなかなか抉りが効いていて引き摺り込まれる、といった感じだった。
 と言っても、一回見て全てを理解する類の芝居ではないことは明ら。あと、分からないが故に途中は少し自分なんかは余計なことを考えてしまう余地があった。
このあたり商業演劇とは違った味があって良い。相沢一之はもっと出番があるかと思ったけれど、魅せ場はクライマックスで登場人物たちの人生をそれぞれ切り取っているとみるべきか。saraの歌とかも良い。

 演出にこだわると言うよりも、テーマ性と個々の役者の演技力に魅力を感じた芝居だった。

 新しい職場も2年目なので、今年度はできればツキイチくらいで見に行けると良いかなぁ。

 

シティ・フィル「飯守泰次郎のブルックナー交響曲第8番」

 今日が新年度1発目のコンサート。東京シティ・フィル&飯守泰次郎によるブルックナーの8番だ。
 職場に今週きた新人くん達がいたけれど、頑張って仕事をしている脇でサントリーホールへ向かってしまった(苦笑)。何事もメリハリ大事!

 飯守氏は暮れの第九より元気そうである。1楽章は立ちっぱで指揮。そこからは着席してたけど、逆に体が安定したのか、指揮は座ってからの方がアクティヴだった。
演奏は1楽章はイマイチ鳴りが悪かったが、2楽章以降はシティ・フィル大健闘。音量に不足することはない。トリオのリズム感であるとか、アダージョで聴かせるコンバスやチェロの刻みと、ワグナーチューバ。それまでと打って変わってじっくりと歌い上げていた。終楽章は結構テンポが速い。多分、実演では80分かかっていないと思う(ノヴァーク版だし)。

 確かに縦が合わなかったり音がひっくり返りそうだったり、音程が少し怪しいとかあったんだけれど、全体から見たら些細な傷であって、これ程までに飯守の目指すブルックナー像にオケが献身する演奏も珍しい。これより技術的に上手い演奏なんて幾らでもあるんだけれど、何よりも眼前に「ブルックナーの音楽」がただただ鳴り響いているという演奏会は自分が聴いた中では近年、稀である。
終結部はスコア通り。素晴らしい演奏会だった。4番は仕事の都合で諦めたけれど、録音は聴きたいなぁ(生で聴けるのが1番だが)。
 なお、一般参賀アリ。カーテンコールで写真やビデオ撮っていて注意されていたけれど、あれはもう文化の違いだからしょうがないのでは?N響みたいに解禁しちゃった方がいっそのことトラブルは少ないかもしれないなと思った。
 ウィーンでも楽友協会でとってる日本人いたしねぇ。