あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

東京都交響楽団 第975回定期演奏会Aシリーズ

[出演]
指揮/山田和樹
合唱/東京混声合唱団*、武蔵野音楽大学合唱団*
児童合唱/東京少年少女合唱隊**
[曲目]
三善 晃:混声合唱とオーケストラのための《レクイエム》(1972)*
三善 晃:混声合唱とオーケストラのための《詩篇》(1979)*

三善 晃:童声合唱とオーケストラのための《響紋》(1984)**

 

 昨晩は都響定期演奏会で3年ぶり?のリベンジとなった三善晃の「反戦三部作」ということで「レクイエム」「詩篇」「響紋」という、生で次に聴くことはないかも知れないくらいレアな演奏会。 むしろ、ウクライナ侵攻や憲法改正を経ない敵基地攻撃能力の解禁など平和へのリアリティに向き合わねばならない状況だから、演奏会自体もタイムリーなモノになったと言える。そして没後10年、生誕90年のメモリアルイヤーが重なったのも2023年の演奏史における重要な記録になったと思う。
 演奏は実演を生で聴くことが出来て本当に良かった。と言う一言に尽きる。三善晃の才能に驚くと共にこれだけの音楽を邦人作曲家が書いたという事実はもっと注目されて然るべき。
 レクイエムはところどころしか歌詞が聴き取れない。それでも合唱のひとり一人は届けようとする。でもマスとしての響きの中では分からない。断片のみが聞こえてくる。まさに戦争だろう。そこにはも戦闘あろうし、空襲もあろうし、三善自身が奪われた日常でもあるのだろう。ともあれ総体としての戦争である。なんという音の「暴力」「無慈悲さ」だろうと感じた。
 「詩篇」はレクイエムに比べるとずっと整っている。宗左近の詩という一つの作品から作曲されていることも関係するかも知れないし、レクイエム承けてものだからだろう。「レクイエム」の暴力性がピカソの「ゲルニカ」に通じる、ある種の同時性と社会性にあるとすれば(作曲年代は違うんだけれど)、「詩篇」は明らかに「個々人に内面化された戦争」のそれである。だから、最後には受容というか諦念ともいうべき方向へと曲は収束していく。

 「響紋」は児童合唱が歌いながら入っていくのも印象的だ(指示なのか演出なのか分からない)。ここで「うしろの正面だぁれ」は強烈だ。(海老名香葉子やの作品はストレートだけれど、同時に野坂昭如の小説も想像してしまうくらいに子どもと戦争の話はインパクトがある)

 合唱は総じて大健闘。都響も素晴らしく、収録してあったからTV放送は当然なんだけれども、できればCD化して欲しいと思う。
あと、三善晃の作品集のCD持っているとは言え、もっと実演を聴きたいと思った。ここはプログラミングをもっと意欲的にしても客はついてきそう。