あれぐろ・こん・ぶりお 2楽章

備忘録も兼ねて。日記なんて小学生の時宿題で課された1年間しか続かなかったのですが、負担にならないように書けば続くものですね。

ネット時代でどう変わる?@ノエル−ノイマン『沈黙の螺旋理論』

沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学

沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学

 なんだ、こいつは院生のクセしてマンガばっかり読みやがって。と思われそうなので、同日読み終えたこれの感想も。
 社会心理学をやっているならすごく有名なのかもしれないけれど、政治学でもノエル・ノイマンの『沈黙の螺旋理論』は有名だ。もっとも、沈黙の螺旋理論を採り上げる領域は政治学でも投票行動研究だったり政治意識論や政治心理学の領域だったりするのだと思う。管理人は政治思想や政治理論が専攻になるので、この辺りは同じ政治学とはいえ結構疎遠だったりする。でも、テーマとしては面白いので読んでみたかった。


 沈黙の螺旋理論は端的に言ってしまえば個人は社会の同調圧力に曝されてどんどん沈黙させられる、ということだ。昔の言葉で言えば、「物言えば唇寒し」ということである。
 ちょっと分かり難いため、具体例を出しながら説明しよう。


 戦前のドイツや日本ではナチズムや軍国主義が席捲したが、そうしたファッショ的な政治勢力が台頭する以前は(日本は一応、だけど)両国とも民主主義体制であった。
 民主主義体制ということは、それぞれ個人が自分の思うとおりの主義主張をすることができる社会のことだ。そうした自由に言いたいことがいえる社会にも関わらず、ある主張がいったん大きく広まった場合、周囲の視線を気にして次第に反対意見が言えなくなる。
 心の中では反対でも口に出すことが難しくなった結果、「見かけ上」、反対者が少なくなる→少数派にもめげず反対したヒトもやがて反対意見を口に出すことが出来なくなる…やがてその社会から反対意見は沈黙してしまう、という一連の過程があたかも「螺旋状に」起こっているから沈黙の螺旋理論と名付けたのである。


 一度、何かの意見が支配的になるとそれに反対することが難しくなる。こうした事例は現代日本政治でも見つけることが出来る。
 例えば、発足当初の小泉内閣への驚異的な支持率の中で小泉批判をすることが非常に難しかったり、北朝鮮拉致問題ばかりが採り上げられたとき、北朝鮮や関係団体への糾弾に賛同しない意見を表明することが非常に難しかったりすることが挙げられるだろう。
 つまり、「自分とは違う考えなんだけど、世間はそう思っているだろうからなぁ…」と思ってしまい、その「違う考え」を表明することが難しくなって、そうした世間の意見(=世論)に乗っかってしまうのが、沈黙の螺旋だといえるだろう。


 沈黙の螺旋が起こってしまうと、民主主義の前提が崩れてしまう。
 反対意見や異なった意見が実は真実を含むモノであったり、多数から支持されている意見の問題点を指摘するモノだったりする可能性がある。そうした意見が排除される社会はやがて硬直し停滞していってしまう、というのはJ・S・ミルの指摘するところでもある。
 多数の様々な意見を闘わせてより真実の意見に近づけていく、というのが民主主義の鉄則であることから、社会は様々な意見を表明できることが望ましいと言うことだ。


 このように沈黙の螺旋理論を提示したノエル・ノイマンであるが、はたして今現在、それはどこまで有効に作用しているのだろうか。
 かつて、新聞やテレビしか情報を得ることが出来なかった時代とは異なり現代はネットというのが非常に普及している。新聞・テレビなどのマスメディアは送り手→受け手の一方通行でしか情報を得ることが出来ないが、インターネットの普及は「考え方を異にしているヒトが他にも存在している」ことを認識させ、さらにマスメディアの一方的な情報に捕らわれない情報収集も可能にする。(日本でも始まったオーマイニュースもその文脈で位置づけることも出来るだろう)


 インターネットによる双方向の情報交流があっても、沈黙の螺旋理論は有効なのか、だとしたらそうした「同調圧力」は一体どこから受け、そのヒト個人にどこまで影響を及ぼすモノなのか。この領域の研究は益々盛んになっているはずである。


 今回は主に沈黙の螺旋理論についての話だけってことで。 

自由論 (岩波文庫)

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 途中に触れたミルはこちら